覚者慈音1061 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の九 大悟録 下 第一章 ギョウの門  テツシン貴尊講義

覚者慈音1061
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の九 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  下
第一章 ギョウ の門


             テツシン貴尊 講述
               2019.6.16


 霊光は信ずる者の身体を包む。信仰の程度うすければ霊光も其に順じてうすし。信仰なければ霊光は影にかくる。修養修行とは別段困難(むづか)しき業を行はずとも可なり。信仰の力を増大するを業として正しき道、正しき教へに従ひなば其にて望は達せらるるなり。特殊の業を行はんとて己の行を等閑にせば、其は修行にあらざるなり。何となれば其は天理に逆く故なりと知るべし。世の中の推移は心意を左右す。左右されたる心意は魂魄を動ぜしむる結果魂魄は自づと知らず知らずの間に霊を離れ行きつつあるに気附かざりしなり。信仰の力失はるれば疑ひの度は追々加はるは当然なり。幼児は母の教へと事実とに相違ある事を知る頃とならばここに初めて不信を生じ、其不信が度重なるに従って其が疑ひに変じ行きて霊より遠ざかり行くは是非もなきことなり。されば其疑ひより信仰を得せしめんがための修養修行によって、霊に復せしめんと計るは法なり。人は地球に下されて其より魂魄心意に至り経路を、更に心意魂魄霊に復せずば神の世界に復帰するを得ざるは当然なり。もし是を心意の境涯に永住せば迷ひの世界に呻吟するも亦道理ならん。修行修養の極意とは他にあらず。唯信仰の二字に帰すと云ふも過言にはあらざるべし。論より証拠泰岳を知らば疑ひの余地はなかるべし。人は修養修行を苦労と考ふる間は心意の行なり。是を楽みて行ふは魂魄の行にて何事も考へず、空にして行ふは霊の行なりと知らば可なり。汝等此門にきくべし。信仰とは何を信ずれば可ならんかと。何と答へしか。汝の魂の親なりと。然り。然り。何と云ふ明答ならずや。
 汝等肉体の親を信ずる如く心の親を信ずれば可ならん。肉体の親にはややもすれば嘘偽りあり。されど魂の親には嘘言のあらざれば、凡てを信じて可ならん。汝等の中には魂魄あるすら知らずして心意のみにて空しき一生を終る無智者の多きは気の毒と思ふなり。彼等に彼等の魂を、彼等の心意より引き出さしむることを汝等は教授せよ。
 其とにかく汝等の一大事として修め学すべきは無を活かすことなり。即ち無の働かせかたを学すべきことなり。泰岳は言葉を用いずして至難と思はるる事柄を回答なすと云ふも是即ち無のはたらきによる。無即ち零なり。零は霊に通ずるゆえなり。さりながらもしここに心意のみの人と魂魄を知り得たる人と二人にて、泰岳にたずねたりとせんか。魂魄の人は直ちに理論を解するを得れども心意のみの人は諒解に苦むならん。故に如何に苦むとも魂魄を知ることを速かに研究せざるべからず。魂魄の有無を知らずしてこの書を学すとも、却て迷ふのみなれば労して効なき結果となるべし。   

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