覚者慈音1060 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の九 大悟録 テツシン貴尊講義 下  第一章 ギョウ の 門

覚者慈音1060
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の九 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  下
第一章 ギョウ の門


             テツシン貴尊 講述
                   2019.6.16


 其は兎に角、泰岳の心意魂魄は一体一丸となりて霊界に流れ入りて其悉くが持つはたらきは霊に化せられて空となりたるは、恰もチ、シュ、キュ、ジョウの四つが此ギョウの門に来りて化せられたると同様なりと思へば可なり。泰岳ならずとも現今汝等の世界に読心術と称して一種の手品を使ふものを我は知る。是を見て汝等は唯人間は練磨すれば不思議の事のなし得るものかなと思ふのみにて、是を特殊のもの又別個のものとして自らの修養材料とせざるは余りに早計なるべし。勿論斯る事を行ふ輩には如何はしきもの余りに多きため、学者間には是を歯牙にかけざるは事実なり。されど中にはたまたま理に合ひし行をなし居る者も見らるるも事実なり。我、汝等に斯る振舞をなせよと勧むるにあらず。要は理を究めて自らの修養修行の参考資料とせよと奨るなり。我等先に感応論に於て語りたる催眠術読心術或は千里眼又は透視法等々の理論と今又ここに説く霊的感受とはその意味を異にするなり。感応論に於て説きたる無心の知らせ、むしの知らせとは相似て等しからざる点も亦あることに留意すべし。
 感応論に於ては初心者のために理解を容易ならしめんがために平面的に論旨を進めたれど、此門にて説く処の論旨は立体的見地より説明なすによって汝等はややもすれば、誤解誤認することもあらんかとの思ひよりここに一言注意しおくなり。されど此門の論旨をよくよく理解せば感応論との原理は一体となるによってその真相は完全に把握することを得るなり。たとえば感応論を客観的と見なさば此門は主観的となるによって、主客一体の論理となるによってすべては明瞭に認識することを得るなりと知るべし。感応論と此門とは即ち感応論にて学びしは魂魄が霊の力によって働くに過ぎざれば、範囲の程度は平面的なるによって極めてせまし。されど此門は霊が主となりて魂魄を使役して働く故に範囲は無限に広し。所謂魂魄が主となりて事にあたると、魂魄が従となりて事にあたるとの相違なりと知らば汝等にも頷ずかるるならん。即ち魂魄のみの気光素には限度を有す。然るに霊より使役せらるる魂魄の気光素には無限のはたらきを有するを以て格段の相違あるは当然なるべし。たとえばここに人ありて一個の紛失物を求めんとする時、彼方此方とたづね求むれども得ず。是を普通の千里眼者に求むれば彼はその品物の何なるかを聞きて後、透視にかかるは習性なり。是等は魂魄のはたらきに類す。されど紛失者の来ればその名目の所在を同時に知りて透視の業など行はざるは霊的なり。魂魄によってなさんとする術(わざ)には或種の法力を用いざれば目的を達するあたはず。わざを行ふにはその法を練磨せざれば効果は少なし。されど霊的にて行はする魂魄は霊の力をそのままに受けつぐのみにて目的を達せられるにより練磨の業も軽くすむなり。或場合には練磨せずとも行ひは成就す。故に霊の力は非常に大なるを知るならん。汝等は我等の理論をききてその大要は知ることを得たり。然れども是を行ふ方法は如何にせば目的を達するを得るならんかと思ひ惑ふならん。即ち斯ることに思ふ間は業はならざるなり。是は何故かと云ふに即ち未だ心意のために迷はされ居るによりて正しき信仰を得るに至らざる故なり。泰岳の如く信仰の人とならばすべては解決すべし。

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