覚者慈音1057 未知日記 第六巻 光明論 下巻 光明論 巻の九 大悟録 下 第一章 ギョウの門 寂れた寒村の風景  テツシン貴尊講義

覚者慈音1057
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の九 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  下
第一章 ギョウ の門
寂れた寒村の生活風景


             テツシン貴尊 講述
                   2019.6.15


 我等が知る山間の僻地の交通不便なる山村には、今も米を薬として病人にのみ与へ居る所あり。されば主食は稗とわづかの麦なり。然して南蛮きび(とうもろこし)を食するのみ。たまたま河魚を用ゆるもごく稀なり。然るにその山村には長寿の者非常に多きを見るに徴しても汝等の称ふる熱量何程蛋白澱粉何程摂取せざれば生命は保たれずと云ふ理論も彼等にはあたらざるなり。もとより都会生活者には其等の理論は必要にして是を悪しとは云はざるも亦彼等は、即ち山村の人よりも学ぶところあらざるか。汝等はあまりに文化に拘泥して大切の食物に感謝の念を失ひあるによって却て精神的に囚はれて、大切なる養分を肉体に吸収なさしめざるにより即ち食物殺生を犯しつつあるなり。食あまりし頃の心持にて感謝の意をこめて泰岳の如く薬を服すの念を失はずば必ず殺生とはならざるべし。我、かかる事をくだくだしく論ずるは此門に関して必要なるによってなり。今後に於ても泰岳の名は屡々引用さるるならん。汝等是を諒として熟慮すべし。
 活かすとか生きるとかは最も大切なる事は蝶々する迄も無けれど、この門に学ぶ者にとりてはとりわけ其重要の度は極て深刻なるものあればなり。人生にとりて前巻に説きたる四つの門を、前半生期と見なすならば此門よりは後半生期とも見らるる関係あるなり。されば前巻に説きたるチの門を発信門と仮定せば、このギョウの門は受信門とも見て差支なし。故にチに対してギョウ、シュに対してコウ、キュに対してフク、ジョウに対してセンと云ふ関係あるなり。人生れてより命終る迄此チ、シュ、キュ、ジョウ、ギョウ、コウ、フク、センの順序は繰り返し繰り返しつつ進み行き、命終りて後も同じく繰り返されつつ進むと知るべし。たとえば一才をチとみなさば九才は又チに返る。次は十七才、二十五才、三十三才、四十一才、と云へる如く繰り返へさるると知るべし。然して人生の一期を百才と仮定すればジョウの門組織門にて終るなり。故に五十才を前半生期と見なし、百才迄を後半生期と見なす関係あり。さりながら汝等の現在は百才を長寿と心得るならん。さればこそ汝等は百才は長寿にして其齢を保つ者は稀なりと云ひ居れり。汝等は人生五十年と称へ居るならん。是即ち半生期ならずや。人生を五十年とせば前半生期はわづか二十五年にすぎず。後半生期も亦同様ならん。この僅少の一生を空しく送る法やある。汝等よく学びよく修めずば悔のみのこる憂あらん。話は余事にわたりたり。もとに復すべし。

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