覚者慈音1056 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の九 大悟録 下 第一章 ギョウの門  テツシン貴尊講義

覚者慈音1056
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の九 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  下
第一章 ギョウ の門
行者の修行生活の解説


             テツシン貴尊 講述
                   2019.6.15


 己を整るとは如何にせば可ならんか。汝等平素の心がけにあり。常に己に注意して油断なくんば是が次第に習慣となり、己の身はその習慣性の行為によって省察るべき必要なきに至るならん。この境涯に達しなば既に我身は整ひたるなり。然して世間を眺むれば彼は我なりとの理も明らかに知ることを得ん。もし汝等にして己を知らずんば他を知ること能はざるはもとより世を渡る道をすら知る能はざるべし。自他の心はさのみ隔あるものにあらず。用法によって僅かの隔あるに過ぎざるなり。されば修行の点に於ていささかの喰ひ違ひあらば時間の隔りは極めて大なれば其点に留意して学ぶべきなり。兎に角己を知らずして他を知るを得んとの結論に達せん。物を活かさんと計らば先づ自らを活かす工夫せざるべからず。自らを活かさんと計らば其に追随して他も自づと活くる故なり。
 現今汝等の世界は食糧難に直面して安からぬ日を送り居れり。わけても汝等の国日本は既に多くの餓死者を出しつつあるは不憫なり。されど是を泰岳に云はしむるならば食物を殺生したる報なりと彼は云ふべし。何となれば従来汝等の食物摂取は口本位として味覚に重点をおき営養を疎かにしたるにより、大切なる営養分を放棄し居たりしは是即ち殺生にあらずして何ぞや。泰岳の如き心がけの人類ばかりなれば今日の悲惨事はあらざりしならん。汝等の戦争前迄は路傍の雑草を喰ひし事なかりしならん。然るに今は如何 ! 喰へると聞かば毒草をも喰ひつつあるを見て、我は無智なるものかなと思ふ念を通りこして哀なる動物かなと実にいたいたしく感ずるなり。我、汝等の日々の食を見るに真実活かして喰ひ居るものは皆無と云ふも差支なき底の食しかたなり。換言せば殺生喰ひをなし居るなり。故に営養不足とか、或は近頃流行語の営養失調とか云へる奇妙なる病に倒るるは是非も無し。是を我に云はしむるならば食糧不安病と名づくるも可ならんと。我、何故に斯る事を云ふかと汝等は不審するならん。汝等は食卓食膳につく毎に其食を喰はず、次の食を喰ひ居るによって其食は既に殺されて死体となり居るによって営養は半減せらるるなり。汝等みみずの道話を知るならん。みみずは神より土を喰へと命ぜられしに、土を喰ひ尽しなば何を喰ふべきかと云ひたるために炎暑に悶死するとの例話あるを汝等は何と解釈し居るか。今食せんとなす食に感謝せず、次の食のみを如何にすべきかとの念あるによって食糧不安病にてみみずの如く悶死するの余儀なきに至らん。

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