覚者慈音1053 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の九 大悟録 下 第一章 ギョウの門  テツシン貴尊講義

覚者慈音1053
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の九 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  下
第一章 ギョウ の門
行者の修行生活の解説


             テツシン貴尊 講述
                   2019.6.14


 泰岳の眼にはすべて生きたるものを見て、死したるを見ず。然るに行者は死したるものを拝むはその像を活かさんとなすならんと思ひて、泰岳は見きはめ居たりしならん。然るに彼の行者は然らずしてその像にしるしを求め居るに不審を抱きたるにより、神の造りしか人の造りしかと問ひただしたるなり。然るに行者は、「我はこの玩具を目標として他人の妨害を防がんとするなり」と答へしなれば泰岳は黙したらんに、行者は未だ悟するを得ざる人なるによって、斯る失敗に終りたるなり。泰岳は草木はもとより家も家具も皆活かして眺め居るなり。行者が持てる偶像も仏の形に造りたる玩具とならば死せりとは見ざりしならん。又泰岳は、「杖、来い、杖、来い」とよびて杖をよびたるは己の飼犬が多くの犬の群と遊び居るをよびたると同様にして、魔法にあらざるを師の坊は知りたるなり。然らば斯る事が果して行ひ得るかと云ふに、是は汝等には到底理解するを得ざるならんと思へど、とにかく理論のみ説明しをくべし。
 総じて行者達は魔法を用いて斯る行ひをなすは易し。又斯くの如き法を行ひ得ずば行者としての価値なきなり。されど魔法を用いずして、泰岳の如き行ひをなすは難し。何となれば魔法には特殊の業ありて行へども、魔法にあらざる業は、杖に生命を与へずばなし得るものにあらず。泰岳は杖に生命を与へて是を活かし居るによって、よべば口こそきかね声に応じて来るなり。もし杖にして口あらばオーと答へたるならん。我、斯く語らば汝等は思ふなるべし。先に偶像を拝したる行者の持ちし像に泰岳の如く、魂を持たせなば可ならんにと。其は余りに何も知らざるものの考へなり。泰岳は人の造りしか、神の造りしかとの事柄をたづねたるも是あるによってなり。人の造りしものに魂を入るるとも、神のはたらきはなさざるなり。然るに行者は神としての祈りをなせしによって、斯くは尋ねたるなり。たとえ偶像と雖も神の造りしならば神のはたらきあり。人の造りしならば人の働きにすぎざることを泰岳は知れる故なり。されば杖には杖の働きあり。柱には柱のはたらきあり。皆其々に魂を与ゆれば本分に従ひてはたらく。されど我、斯く語るとも、汝等の現今の学力にては理解するは難し。今少しく科学の力進歩しなば理論を知るは容易なるべし。

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