覚者慈音1052 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の九 大悟録  第一章 ギョウの門  テツシン貴尊講義

覚者慈音1052
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の九 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  下
第一章 ギョウ の門
行者の修行生活の解説


             テツシン貴尊 講述
                   2019.6.13


 業を修めて後に理を究むるは易く、理を究めて後に業を修むるは難し。汝、慈音よ。インショウ、ミキョウは此門より修行の至難なるを慮って特にもとの円海(闇戒)にて汝の為に、昔ありし日の実話を以て此門より道を容易に進ましめんとの情(なさけ)ある行為を、慈音はあまりに平凡に受けて唯前進を急がんとなすは宜しからず。故に我は汝に反省を促がさんとて筆を止めたり。我、先に前方を熟視して後方を顧る勿れと云ひたりしを、汝誤解なしたるか。聞きしこと見しことをよくよく心に修め充分熟視して前進せよとの心なるぞ。然るに円海の教へを早合点なして前進を急ぐは愚なり。円海は云ひしならん。此次の門を学ぶ参考としてとの意味を語りしにあらざるか。円海の話を充分翫味し見よ。我、今汝等が為に、円海の教へを分解して説き聞かすべし。
 此話は此の門に関して深き関係を有するに依てなり。円海の師は曰く、「学は我に学べ、信仰は泰岳にきけ」と教へたり。是即ち師の情(なさけ)にして、徒弟を導かんとなす者の心得をくべきことなり。泰岳に信仰の道を聴けとはかの愚者にすら、信仰深ければ斯くも偉大なるしるしある事を見て、手本として厚き信仰を得よとの訓戒なり。泰岳は師を信仰するも、他の徒弟は師を信ずる力うすし。何となれば泰岳は愚なるによつて師の言葉はたとえ善悪の如何に関せず、是を心の底深く修めて信ず。彼は疑ひを知らず。又信も知らず。すべてはその如く思ふのみ。是絶対の信仰なり。されど他の徒弟は疑ひを有する信仰なるにより、絶対ならねば泰岳には及ばざるなり。故に絶対信仰を得んとならば泰岳に学ばずば得る所なからんと、師の坊は他の徒弟に教ゆる事をなさず、又教ゆるを得ざるに依てなり。もとより言葉を以てするも到底泰岳の如き神聖にして純真なる信仰は得らるるものにあらざる事を知りたれば斯く教へしなり。さればこそ泰岳は魂の者にして、心の者にあらずと云ひしも是による。泰岳にしてもし小児時代悪魔の徒弟となりたらんには彼は大悪魔となりたるならん。されど一度悟道を得たる以上、如何なる悪魔も如何ともなす能はざるなり。己自らは己を信ずることを得ざるならん。泰岳は己自らを信ずるが故に迷はざるなり。神より受けたる我なるに其自らを信ずる能はずして如何でか、神を信ずる事を得んや。泰岳は偶像を拝する行者にむかひて、「是は神の造りしものか、或は人の造りしものか」との質問をなしたるは、既に行者と泰岳の悟道の差に於て余りに開きの甚だしきを見るならん。偶像を拝する行者は此理を知らざるなり。されば神を知らざるは当然なるべし。



 

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