覚者慈音1054 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の九 大悟録 下 ギョウの門  テツシン貴尊講義 一章 ギョウ の 門

覚者慈音1054
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の九 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  下
第一章 ギョウ の門
行者の修行生活の解説


             テツシン貴尊 講述
                   2019.6.14


 たとえば一個の機械にも動力を与へずば運転をなさざるならん。即ち動力は魂なりと考ふれば頷かるべし。すべて動力を与へて物を活かせと云ふなり。泰岳は殺生を嫌ふは動力を奪ふを忌むにて働く物の働きを奪ふは殺生なりとて厭ひ居りしなり。すべてを活せよとは誰もが口にすれど、事実行ひに移すことは容易の事にあらず。されば其心がけにても平素貯へをかば、従って其が習慣とならばこの習慣より新しき道の生るるものなる事に留意せよ。
 泰岳は食物を活かして喰ふとの行ひに対して、汝等は感謝して食するならんと考ふるならん。其もその中に含まれたらんも、泰岳の場合は大いに異なる教へあるなり。
  汝等はよく云ふ、腹八分目医者不用とか云へる言葉の如く、彼は食物は身の養ひに必要欠くべからざる薬の如くに用い居るなり。されば彼の摂取する食物は多からず又尠なからず、肉体の要求に応じたるを用ゆるにて、汝等の如く美味ならば多量に摂取し、美ならねば少量を用ゆる如き事をなさざるなり。故に彼は他人の食の半分にて己の健康は保たるると云ひ居るなり。汝等は過食して身体を害するは食物を殺したるなり。如何なる銘薬も多量に服用せば毒となりて身を害ふ。是即ち殺生となる。是殺生の罪なり。報なりと知るべし。
 さて是よりは大切なる教へなれば卒爾に聞くこと勿れ。すべてを活かすと云へる中にも最も心すべきは言葉を活かす云へる事についてなり。汝等は言葉と云へば口より出づるものとのみ考ふるならばそは大なる誤りなり。泰岳の如き僅か一句の呪文を記憶するに一ヶ月余の日時を要する程度の者にして如何でか多くの言葉を有すべきに道理あらんや。然るに彼に接する者はすべてに感化され、又至難なる問題も解決するを得と円海は話たるにはあらざるか。この事によって考へを推し進め見よ。汝等が同国人の中にすら言語通ぜざる事は屡々体験するならん。言葉は便利なれど通ぜずば又不便なるものなり。斯る事を彼に語りたし思へど、さて適当の言葉を如何に考ふるも浮び出でず、口ごもりて却て先方を不愉快に終らしむることあるならん。是等は活きたる言葉にはあらず。又汝等名文は活きたる言葉と思ひて美文名文に心を用い居るを見る。もとより美文名文も生きた言葉の部類に属したりとも云ひ得るならん。されど我等に云はしむれば生きたる言葉と云はんよりは、寧ろ優れたる言葉と云ふは適当ならんと思ふなり。言葉は一種の約束符号なればなり。されどその言葉にも生死はあるなり。生死あればこそ人をも怒らしめ或は悲しましめ、或は楽しましめ喜ばしむる等々のはたらきあるなり。我等が云ふ言葉とは斯る範囲のせまきを語るにあらず。神はもとより人類獣類鳥類或は草木に至る迄通ずるにあらざれば真の言葉とは云はれざるなり。汝等日本には「言霊」と云ふ言葉を用い居るを我は聞く。「言霊」とは言葉に魂を有せしむると云ふ意味にてはあらざるか。然りとせば生きたる言葉を云ふならん。言葉に生命を有すると心附きしならば、日常の生活をその言葉を応用してすべてを活かして世渡りをなさざるかと我は不審に思ふなり。

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