覚者慈音1048 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の八  大悟録 上 第四章 ジョウの門 円海大師講義 行者の生活その一端

覚者慈音1048
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の八 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  上
第四章 ジョウ の門
行者の修行生活の一端


             ミキョウ貴尊(円海大師) 講述
                   2019.6.13


 丁度私が入山を許された頃には彼の人は徒弟中の上位に置れて他の弟子達に法力を伝授して居ました。見ると其業の優れて居るには唯々驚嘆の他はありませんでした。「霧開きの法」をなすにも普通は四五間位より払へませんが、彼が払ふと六七拾間は払ふて其が急にふさがらないには初心の私は眼を円くしたものでした。彼は師の曰はるる程の愚物だったろうかと、師の坊をさへ疑ふ程でしたが、大日経一巻を記憶(おぼえ)るのに十一年かかったと聞きましては成程と思ひました。師の坊の云はれますには「彼は心の者でなく、魂(たましい)の者ぢゃ」と。(心の者とは心意の者でなく、魂魄の者と云ふ意味)。師の坊が初めて彼に会った時、其合掌して居る姿に心惹れて徒弟にしたと云ふ事です。彼は小柄で丁度、慈音さん位の人でした。それぢゃのに彼の警蹕(けいひっ)の声と来たら実に素晴しいもので、どんな猛獣でも尾を巻いて逃げて仕まふといふ実に物凄いものでしたから、大抵の人なら気絶するでせう。徒弟仲間ですら慄え上ったものでした。其が食事でも徒弟の一食分が彼の二食分ぢゃのに彼は肥満して健康は人に超えすぐれて居るのぢゃから不思議な身体の持主です。師の坊が言はれますには法としてはわしに学べ。然し正しき信仰は泰岳に学べとなあ。同じ呪文を称へても彼の如く効果はありません。彼は法力を行ふ時、軽く呪文を称へ居るのに効果が顕著ですが、他の者が力一杯気力をこめて一生懸命やっても彼の半にも及びませんでした。私は彼に訊きました。「貴下は何が一番嫌ひですか」と。すると彼は即座に、「わしは殺生は大嫌ひぢゃ。他に好きも嫌ひもない」と言はれました。其処で私は、「では貴下は殺生はしませんか」と念を押すと、「決してせぬ」と云ひますので其では「日々の食事は殺生ではないのですか」と、彼を試す信算の悪戯心から揶揄半分訊いた事が、私にとっては生涯修行の一大教訓となろうとは夢にも知りませんでした。
 慈音さん。彼は何と答へたと思ひますか。斯うなんです。彼は真面目になって私に睨みつけて重い口調で斯う云ひました。
 お前は食事するのを殺生で喰ふのか。そんな事ぢゃから、わしの倍も喰てやせるのぢゃ。何故物を活かして喰はぬのぢゃ。死んだものでも又活せ。生きたものなら死なせぬよぅにして喰へ。死んだものを活して使へ。わしは殺生は嫌ひぢゃ。殺生するものは尚嫌ひぢゃ」と恐しい権幕に睨まれた時は、さすが図々しい私も彼の前に頭を下げない訳には行かなかったのです。
 私は其事を師の坊に申し上げますと、師の坊は暫時考へて居られましたが何を思はれたのか、全部の徒弟を集めて彼等の錫杖(しゃくじょう)を一ヶ所にならべさせ、「泰岳よ、この中にある汝の杖はどれぢゃ、其処から指して見よ」と云はれますと、彼は立ぅとも見よぅともせず唯大声で、「杖、来い、杖、来い」と二声云ふと、一本の錫杖はすべるように彼の手許に行きました。彼は静かに是を師の前にさし出して、「是でござります」と我名を見ようともせずさし出しました。師の坊は姓名を見ると杖には彼の名はたしかに記されて居ります。

×

非ログインユーザーとして返信する