覚者慈音1046 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の八 大悟録  上  第四章 ジョウ の 門

奈良時代の役行者(役行者 小角おづぬ)像
覚者慈音1046
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の八 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  上
第四章 ジョウ の


               テッシン貴尊 講述
               2019.6.12


 小さき溝にかけられし橋もふまずして飛び越さば溝に足をぬらすことあらん。心して渡らば安全なるべし。されば正しき自然の理を究めて此処に初めて安心立命は得らる。汝等の日常の生活を見れば水辺にたはむるる幼児よりも尚危ふし。教主はいたく是を憂ひ給ふなり。大自然をさとりしならば自然を体得するは易く、従って自然を知るは容易なるべし。故に大自然にかへりて大なる霊光に浴さんことに努力せよ。道は遠きを求むるに及ばず。汝の身の内にあり。十万億土わづか一足と云ふにてはあらざるか。又「極楽は西にもあらず東にも、北にもあらずみんな身にあり」と云へる短歌も我は聞きたり。此門をゆるさるる底の人材にして斯る道理のわきまへなくんば此門に入るの資格はなし。汝等奮励努力して組織の門の悟道を得よ。学ぶべきは今後に多し。光陰は刻一刻きざまれ行かん。後方を省顧るは未だ早し。前方を見つめ油断なく進み石につまづかぬ用心すべし。生爪をはがし足をいたむれば歩行は意の如くならずして空しき時を空費するのみ。足の三里に灸にてもすえ健脚となりて愉快の旅を続くべし。
 此門を汝等の世界にたとふれば一個の会社を組織したると同様にして、是より営業にとりかからんとなせる姿なり。又青年が学業を修めて修行証書を受けたる程度と知るべし。更に進んで高級の学問をすべきか、或は世間に乗り出して実地の学問を修むべきかは汝等の自由なるべし。是は父母の干渉する処にあらざるなり。学を好まば学するもよく、世間に出でて実地について社会学を修るも亦可なり。兎に角此門によって基礎は固められたるなり。一度事を起したれば初めは大切なり。組織の方針をあやまちて世間の信用を失はば永遠に是を挽回することは艱難ならん。もとより是が開拓はきはめて艱難なれば重大なりと考へて工夫の上にも工夫を重ねざるべからず。世間の荒波にもまれんと乗り出したる青年は学校にて学びしことと実地とには非常なる相違ある事を発見して、周章狼狽する者多ければ指導者たる者深く注意してあやまたしめざるよぅ導きやるべし。
 此門に於ても亦然り。一度誤認すれば終生ぬぐうべからざる汚点を残す怖れあれば誤解し、或は曲解せざるよう深く考慮をめぐらすべし。あやまれる悟をなさば逆転して魔界に堕る恐れあればなり。座禅してあやまれる悟をなせる僧達はすべて曲解の結果、変態性となりて禅道を誤たしむるもこの誤認より生ずる結果なりと知るべし。物事中心性より考ふる時は終始の区をきはむるを得ざる事多し。たとえば鳥が先に生れしか、卵が先に生れしかなどの二股問答などは物事を中途より考究せんとするに帰因す。汝等の考へ方には是等に類すること多し。故に考究は相対的となり絶対的とはならざるなり。故に此門の見聞なすを許されし人々はよくよく凡てに意を用いてあやまらずして帰神せんことを冀ふ。
 この四個の門を見終りたる汝等が心理状態は如何なりしか。全宇宙の自然の大自然の一端を見聞なしてすら唯驚畏の眼を見はるのみ。今後許されて神秘の門(是は言葉のあやにして神に秘密は決してある事なし)を開かるれば、汝等は感激に胸をおどらすのみならん。努力して屈せず撓まずば必ずこの門は開かるべし。我、この辺に於てこの巻閉んとなしたる時、インショウ、ミキョウ、我に来りて曰く、我、以前の円海(闇戒)に立ちかへりて此門に関係したる話を慈音に語りたしと申し出でたれば、我、是を諒として許したれば此書の巻末として、慈音よ、円海の談話を記録して後輩者のために残しをくべし。



 

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