覚者慈音1036 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の八  大悟録 上 第三章 キュの門  テツシン貴尊講義

覚者慈音1036
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の八 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  上
第三章 キュ の 門


               テッシン貴尊 講述
               2019.6.10


 其後富者は易者の言葉に従はずして何れ死するならば、面白おかしく私財のあらん限り遊興に費さんとの観念を起して自暴自棄となりたれば、彼の運命は開拓せられざりしならん。然るに彼は易者の言葉を率直に受け入れ世の中の貧者を救はんと努力せしによって、彼の精神状態は全く一変したるなり。放蕩の心は慈悲の心に生れかはりたるなり。是彼にして彼にあらざるなり。されば先の彼は死して現在の彼と生れかはりしなれば、ここに全く運命開拓はなし遂げられあるなり。その後の事柄につきては汝等にも察せられるならん。されど我、次に話す霊的に於て必要なればいささか語りをかん。
 分限者は財宝を使ひはたして其日来りても死せざれば又も疑ひを生ずるに至りたり。すべて人間は悟りしと思ふ観念も些細の事に惑はされて、悟りより逆転するは正しき悟りならざるを教へたるなり。然るに再び易者に対面して此処に初めて己の運命転換したる確証を得て悟道に入りたり。我、他を救ひて却て其人に救はるるとは不思議の感も深くするならん。ここに汝等に注意することあり。此話に見る如く汝等他人の為と思ひてなしたる事が、却て怨まるる事もありとの教へも此中に含まれあることに留意すべし。斯る教へかたのみならば普通の事にて別段取るに足らず。又此門についての関係とはその意味に於ても縁遠き感じもあるならん。我の語らんとするところに耳を籍すべし。
 先づ霊を易者と見なし、魂魄を分限者として心意を行為と仮定して修養せば第三の門の悟道の法は明らかならん。即ち心意の欲するがままになし居たる魂魄は、たまたま霊なる大道易者を見て是を我親我守護者なるを知らず。是を過少評価して娯楽半分に運命を問ひしに霊なる親は是を教へたるは、即ち愛の情(なさけ)と情(なさけ)の慈悲との融和に他ならず。ここに至って魂魄は心意の我儘を捨てて霊の命に応じたれば、霊なる親は彼が危難を救ひて遂に悟するを得て、ここに運命を開拓して神界に入りたり。然れども未だ心意と云ふ肉体本位のものを悟せしむる底の大悟にあらざるを以て、再び霊を求めて尚も教へを受けたるに己の心の未だ正しからず、ややもすれば霊を軽んじたるに心づき、此処に初めて全く大悟するを得たるなり。
 汝等此門を見し時、我語りし如く悲しめば悲みに応じ、怒れば怒りに応ずると云ひしは所謂融和によるなり。霊気霊光によって気光素はみなその悉くに応じて融和を計れど、霊気霊光が基なれば是等に染まざるなり。数多の気波光波は心意にして各自の欲するに任せ働く。されば魂魄に属する気波光波はその心意に力を与へ居る様を現はし居るなり。然るに霊光霊気に従はばやがては組織の方向に向うことを示めし居るは融和の門の教へなり。もし此門を見あやまりて光と気波との関係を明らめず、気光素の分散するに委せなば第二の門に逆行すべし。我、是を知れるによって道話例話を引用して、汝等の智慧を霊気霊光の方向に向はしめんと計りしなれば、その心にて誤らざる方向に進むべし。然して如何なる事柄を考ふるにも霊的方面に取り入れて観察をめぐらす事に努むべし。

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