覚者慈音1035 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の八 大悟録 上  第三章 キュの門  テツシン貴尊講義

覚者慈音1035
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の八 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  上
第三章 キュ の 門


               テッシン貴尊 講述
               2019.6.10



 我、斯る珍らしからぬ小説を引用せしは他ならず。運命開拓の理由を汝等に覚らしむる方法を容易ならしむるには適当と思ひし故なり。この小説を聞きて汝等は是を己が修養資料として如何に吸収せんと考ふるか。汝等に語りし如く各方面より考へ見よ。唯善行をなさばその報にて死も生に変るとの教訓にして、善因善果を現はせるのみの観念に終らばあまりに智慧なしと我は思ふなり。
 先づかの分限者は娯楽に易をもてあそばんとなせしところより考究せざるべからず。我等は易者ならねば易の可否を論ずるにあらねど、易学と称する上からは読んで文字の如く明るき学と云ふならん。然りとせば明るき学問をもてあそばんと計る心は暗き人なるべし。心暗きが故に迷ひて易を試めさんとなせしは既に迷道にふみ迷ひたるなり。汝等一寸先は暗と口にし居るにてはあらざるか。されば自己を分限者と思ひて考察し見よ。汝等食足り身辺に何等不安を感ぜざる時、友と散歩のつれづれに友が易を占(み)せしめたるならば汝も亦占(みせ)しむるならん。もし汝等にして悟したるならば斯る悪戯はなさざるべし。即ち占をみるは未来を恐るる故ならん。人は財宝のみにては満足する能はずとの教訓なりとも考へらるべし。
 次に分限者は路傍の売卜者如き者がと軽視したるにより玩み弄ばんとしたる点についてなり。人間の価値は風采の如何によって定まるにあらず。大道易者とあなどる心は既に自分の自尊心より起るなり。故に自尊心の強き人は自らの天分を知らざれば真の人にあらず。天眼鏡にかけられて己の運命をはかられ疑ひのなかにも心の動揺を如何ともなす術を知らず、死すべき日時を示めされてはその動揺は恐怖と化し、是を抑圧する事あたはず、周章狼狽するも及ばざるなり。罪人が覚悟をなし居てさへ死刑の宣告を受くれば蒼白となりて、戦慄止まらずと云ふに是は又突如斯ることを言はるれば、易に疑ひを抱きつつも亦不安の念は絶えざるべし。人は生あれば死ありの理を知りながらもイザとならば恐怖と未練にとざされて悶々することを戒めて、不断の覚悟をなしをけよとの教訓と見るも可ならん。次よりは大切なり。

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