覚者慈音1023 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の八 大悟録 上 二章 シュの門  テツシン貴尊講義

覚者慈音1023
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の八 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  上
第二章 シュ の 門


               テッシン貴尊 講述
               2019.6.06


 又是を汝等の肉体にて考ふるならば赤児が漸く歩行をはじめて幼児となりて、是より世の中の事柄を習ひ覚えんとなすに等しと思ふべし。幼児は聞くもの見るもの手に触るるもの、口にするもの悉くを唯訳もなく取り入るるものにて、其理由を究むるにもあらず、又是が善悪をも知らず、善悪の言葉の意味すら弁へざれぱ、汝等の眼より見るならば天真爛漫なるによって我等も今一度彼等の境涯にかへりたしと思ふならん。食を求むる心配なく、如何なる行為をなしても罰せらるることあらず。眠たければ眠る。即ち横転逆転自由なるべし。足を運ばずとも母の足あり。手を働せずとも母の手あらん。汝等斯る境涯を羨むならん。されど汝等はこの境涯は一度験したるなり。然らば汝等は其時代の長からんことを願ひしか。幼児の事はおぼろにして何も知らずと答ふならん。苦を知るに依て楽を求む。苦楽の味を知らざる者は、不幸不仕合の人なりとは浮世をうがちたる言葉なるべし。其は別として汝等第二の門に永住したしと思ふは、恰も幼児時代の長からん事を願ふに似たり。されど世の中を知り尽して業を終えての後に、幼児の如くにて明朗なる境涯となり得たらばその楽みや如何あらん。思ふだに血わき肉をどるの感を深くするならん。
 汝等の国日本には還暦と称して六十一とならば赤子の如く、赤き衣を纏ひて祝ふ習慣あり。是等の風習もあながち迷信とは云ひ難からん。修養したきものと我等は思ふなり。汝等人生の任務終りて是等の門に見る如く、順次生れかはる事を得れば如何に楽しき事ならずや。還暦として祝ふも可ならん。されど唯無意義に訳もなく祝ふは宜しからざるべし。汝等六十一才ならずとも七才にても可なり。早くこの門を通過せん事を我、心より祈るものなり。
 さて汝等がまなこに映じある滝の如く光り流るる光波は、第一の門に見たるとは大に異なりて見ゆるならん。即ち第一にありし大光波はもとより、小光波はも共に破壊せられて相混同して動じ居るにて云はば破壊されて、規律正しく飛散しありと見て差支なからん。さればこの大小の光波気波共に破壊されて、ここに分解なしつつあるなり。故に第一の楽音と第二の音響とは全く異なれる旋方と化したり。第一の場合は純正律なりしが、第二にては平均律となり居るなり。故にすべては複雑となりたるなり。即ち百四十四の気光素が破壊され分解されて一千七百二十八気光素となり、更に破壊分解によって無限に化せられて其が宇宙全宇宙のために、大なる働きをはたしつつあるなりと知るべし。

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