覚者慈音1020 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論  大悟録 上 第二章 シュの門  テツシン貴尊講義

覚者慈音1020
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の八 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  上
第二章 シュ の 門



               テッシン貴尊 講述
               2019.6.02


 第二の門は霊の門なれば汝等の肉体を入るるとも、是を完全に擁護して決して危難に陥るることなし。霊の中に肉体を置くと肉体の中に霊を宿すとの相違は雲泥の差ある事は、汝等にも察せられるならん。我の語る処はこの理を云ふなり。肉体の考えへと霊の考へには斯くの如き相違ある事に思ひを廻らせよ。今日迄の汝等なれば肉体の考えへも然るべけれど、此門を許さるる底の汝等にして今も尚肉体の考えへに囚はれ居ては余りに不甲斐なからん。されば肉体を霊中に投ぜよ。然してすべてを霊に委ねて霊の欲するがままに
任すべし。斯くする事によって初めて大悟は得らるるなり。肉体を霊に投入せしむると霊を肉体に押し込むるとの相違によって悟すると悟し難きとの区別ある以上、汝等に於ても一工夫なかるべからず。悟りは恰も紙一重の所にあるものぞかし。是に関して次に語る処を参考とせよ。
 我、汝等に此門にて横転逆転順転せよと云ひたり。然して皮膚より受くる触覚を味ひ見よと勧めたるは、如何なる事を意味するかを考へ見よ。是には無限の真理ある事に気づくならん。汝等はよく七転八倒の苦みと云へる言葉を口にするならん。この七転八倒の苦みを此門にて味ひ見よと云ひしなり。又皮膚の触覚と云ひしは即ち汝等が日常他人と交はりつつある世間の感情にして、是が神経に及ぼす影響を観察せよと命じたるなり。汝等が心にて如何なる体験を得たりしか。七転八倒して四苦八苦の苦悶なりしか、はた又平穏なりしか。汝等の世界なりせばこの苦は到底堪え難からん。されど此門内にては爽快にして楽しき運動となりたるならん。是は悟らざりし昔は何事も苦しく思はるる事も、悟れば楽みとなるとの教訓と思ふべし。小さき例にて語れば汝等他人より依頼を受けて何事かなす時、最初は馴れざる仕事ならば能率は思はしからねば肩を凝らすのみにて倦怠を感ずれども、馴るるに従ひ興味を感じて却てその業をなさざれば倦怠を感ずるに至らん。其と是とは大同小異と考ふれば推して諒解する事を得べし。皮膚に感ずる神経感情問題にはすこぶる複雑微妙なる理論を有す。
 先づ第一に考ふべき事は世相の移り変りより受くる現象なり。今汝等が国日本について考へを廻らし見よ。戦前の気分と戦時中の気分更に終戦間近なりし頃の気分又敗戦に直面したりし時の気分、其後今日に至りたる気分を回顧すれば微妙なる相違ありて、其が国民一般云はず語らずして共通なる観念を有しあるは、是言はずもがな肉体に及ぼす影響なるべきは、誰もがいなみ難き体験なるべし。是等の事柄に対して無関心にて過したる人は、先づなかりしものと見て差支なからん。もしありとならば白痴者か、或は変態性さとりそこない人なるべし。今一つの積極的の例は汝等あやまって転倒したる時、身内に痛みを感ずるならん。斯る事の積極的直接感応も亦前述の如き消極的関係感応も、結果に於ては同様の関係となるなり。
 剣道の教訓に、「振り上げし太刀の下こそ地獄なり、身を捨てて見よ極楽もあり」と云ふ短歌あるを汝等は知るならん。我の語らんとなすは此理に等し。肉体をかばいて後方に身を引かば、其虚に乗じられて生命ををとす。然るに身を捨てて相手の懐中裡に飛び込めば却て敵の剣は空を切る。其虚に乗じて彼を倒す事も得んとの教へなるべし。我の語らんとするも是に類する教へなり。

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