覚者慈音90 未知日記講義第一二巻 大霊界 静の感じ動の感じについて その4  教主寛大講義

静の感じ動の感じについて      その4


未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                         NO49                                  静の感じ動の感じについて      その4                                                教主寛大 講述


 汝等衆人感じと云へば肉体を連想し、又更に心を連想するならん。されば我等の教ゆる空となれ、霊となれとの意味に対して如何に解釈するや。今より是等に関していささか語りをく必要あり。静の感じと動の感じ項目を掲げて説明なさん。
 感ずるとはすべて動なるべし。動ずるが故に感ずるならん。然れば静の感じとは如何?感じは動なりとせば静と云ふ言葉は成立せざるべし。されど一方に動と云ふ言葉のある以上、一方に於て静と云ふ言葉のあるは、相対的より論ずれば、現れ来るは当然ならん。静も動なり。動も静なり。静動是一なるべし。是等より推定せば静とは空にして、動とは実を指すならん。動の感じを肉体とせば、静の感じは精神的となる。又静の感じを肉体とせば、動の感じが精神的となる事もあらん。汝等諸子は肉体的に物事を考ふるが故に、我等の解釈教へを認識する事を得ざるなり。故に今後は肉体を捨てよ。然して先づ精神感応を基として聞くべし。然らずば霊の感じ空の感じなどを理解する事は至難なり。
 昭和二六年三月三日こだま会に於て円海が語りし如く、汝等衆人米をつくらんとして藁を作るなかれ。米を得んとして労力なし居るにてはあらざるか。神は人肉をつくりて其を
目的とするにあらずして、魂の稔りを得んがために人肉を地上におきたりと、語り居るを我は聞きたり。動物性を度脱して人間性に進めよと教へしは、肉体本意を離れて精神本意に入れよと云へる言葉と、思ひなば頷くところあらん。未知日記全巻を読みたるもの最早肉体の必要を感ずる底のものはあらざるならん。然るに未だ我等の教へを聞きて肉体本意に考ふるは何故ぞ。肉体への執着は容易に離るる事を得ざることの悲しとは思はざるや。是等は棄執着の法を未だ完全に認識なし居らざるが故なり。肉体本能を捨てて我等の説を、精神的より更に進んで魂的に、更に霊的に更に無言詞へと進ませなば、肉体は自ずと従ひ来りて共に迷はざるべし。

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