覚者慈音89  未知日記講義第一二巻  大霊界 実在的と空虚的の理論 その3  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                                                      NO 48                       
実在的と空虚的の理論         その3   
                                                                             教主寛大 講述



 この理より推測すればすべては感じより受くる結果が、言葉となりて現はれ来りしことは察せらるべし。無言詞と云ひ有言詞と云ふも感じより受くるものなれば無言詞も感じなるべし。所謂言葉なき感じが言葉となりて、現はれ来るは有言詞ならん。然りとせば有言詞と云ひ無言詞と云ふも、すべては感じより来る結果に他ならず。されど我等の云はんとする所の無言詞とは感じにはあらざるなり。感じ来たりて己が心に浮かぶ時、言葉の未だ具はりなきため説明に苦むのみにて、もし言葉あらば感じによりて説明する事は容易なるべし。故に感じによって現はさるる事柄は、無言詞にあらずして未言詞と称するは却って適当なるべし。無言詞と未言詞の相違は相似て等からず。未言詞は帰するところ有言詞の部に属すると見なすも可ならん。無言詞とは斯くも複雑微妙なるものにて、この説明には言葉を以て現はさんよりは、寧ろ霊より霊に通ずる教へにあらざれば、通ずるものにあらずと承知せよ。されど霊より霊に通ぜしむるには、書以て教ゆること難し。さればとて書を以て残しおかずば、後輩者は道を知る事を得ず。ここに我等の苦悩みとするところは多し。
(このところしたたむるに当たり、我と慈音の間に霊通ありて慈音は心を苛せ居れり。ために文意は曖昧となりたるなり。霊通より受くる感じは斯くの如きものにて、我の言葉が慈音に受け入るる力未だ備はらざるが故に、彼は迷ひを深くす。故にこのところは些かまぎらわしくなり居れど考慮進むるに従ひ、従ってすべては明かならん。今し忍びて聞くべし)
 慈声は慈音にむかいて霊に通ずるを霊通と云ふかと質問なせしに、慈音は是は特殊の言葉にて、霊交と云はば解釈は却って安からん。されど霊交にはあらざるなり。故に是を霊通と称したりの説をなしたり。其れにてよし。我は云ふ、無となれ。空となれ。霊となれ。然して言葉の必要を感ずるなかれ。言葉なければ、又感じもなし。言葉を要するが故に、感じは必要となる。感じもなく唯無となれ、空となれ、霊となれ。然して言葉の必要を感ずる勿れ。言葉なれれば、又感じもなし。言葉を要するが故に、感じはひつようとなる感じもなく唯無となれ、空となれ、霊となれ然らずば無言詞は現はれざるべし。否無言詞とはならざるべし。是は慈声と慈音に教ゆる言葉なりと知るべし。

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