覚者慈音966 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論  大智順歩と順逆視法との関係について 巻の七  教主寛大講義

覚者慈音966
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の七 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  下
大智順歩と順逆視法との関係について



                セイキョウ貴尊 講述
                   2019.5.03
                      236番


 汝等日本人は天皇を神とも仰ぐは宜しけれど、真の神と思ふは誤りにて天皇と雖も肉体を有する以上人にして神にはあらず。人としての最高位に置かれたる人間に他ならず。ン現は人間として接し、神は神として奉仕へなば可なり。今、慈音が苦み又苦められつつあるは、此境涯に誤算を生ずる理由あるに依てなり。何となれば人の為に彼は道を説かんとせば、人は彼を誤認して神の代表者とか、或は神の命を受けたる予言者とかの如く思はるれば彼は是に一種名伏し難き責任を感ず。されば神にも仏にもあらざれば時には誤言する事もあらば人は彼に対するあなどりを生じ、又慈音の教へに従はず、信を等閑にして恐懼をなさざれば神に対して不敬なりとの心にて、彼は苦み又苦められつつあり。されど是は受戒なればやがては許さるるなり。
 今日は日本の昭和二十一年三月五日なれば今より十日の後即ち昭和二十一年三月十五日夜六時を期して彼の戒律は免除さるべし。
慈音よ。喜び慎みにつつしめ。然して其日を、其時を待つべし。我等も歓喜して共に祝す。
 其はとにかく人はいささかの事柄より優れたる行ひなし得れば慢じ易くして不能の事柄に迄口をさしはさみ、又手を広ぐるものにて其悪癖は眼を蔽ふべきもの屡々なり。是等の事の慎みは慈音は最も深きに依りて、教主は彼を愛し給へるなり。汝等も特に意を用ゆべし。汝等一法を伝授さるるとも万法に通じたる如く装うこと勿れ。若し斯る行ひをなさば神を汚すのみならず、人の信を失ふなり。
 一時の信仰を得せしめて却て人を惑はす信仰ならば勧むべからず。心の底より信じて永久不変の信仰ならでは正しからざるなり。されば一時信仰は水泡に等しと心得て道を歩むには互ひに手を携へて八方に眼を配り怪我過失起さざる用心肝要なり。世の中には多くの宗教行はれ始めは正しくして日を経るに従ひ信者の増すごとに次第に悪辣なる教へに変じて、果は其宗教を亡ぼす事多きは皆一法を万法たらしめんとなすに依てなり。されば我教へを人に勧むるに於てもよくよく注意せざれば教主寛大の努力も空しくなるの恐れありと知りて、知れることは明確に答へ知らざることは教主に教へを求て後にあらざれば答ふべからず。自らの智慧にて勝手の振舞をなす時は、大智に逆行するに依て身を傷くる結果となるなり。

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