覚者慈音965 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論大智順歩と順逆視法との関係について  セイキョウ貴尊講義 巻の七    大智順歩と順逆視法との関係について

覚者慈音965
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の七 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  下
大智順歩と順逆視法との関係について


                セイキョウ貴尊 講述
                   2019.5.03
                      233番


 夏には旱魃あり。冬にも雨降らざる事多し。斯る時の予備なくんば作物は枯死するの恐れあればなり。井戸には良水あり。悪水あり。又汲めども尽きざるあり。僅少にて再び湧き出づるを待たざるべからざるあり。毒水あり。布にて漉さざれば飲用するは能はざるあり。人の智慧にも斯くの如くなる種類あるなり。汝等もよく云ふならん。彼は悪智慧の働く人なり。若し彼にして此智慧を善事に用いなば、世に処して貢献する所大ならんに真に惜むべき事なりと。是等は即ち悪水か、或は毒水の部に属する人物なるべし。されど悪水毒水たりとも決して是を排除すること勿れ。用ゆる方法によりては多大の効果をもたらす故なり。たとへ奸智に長けたる悪人なりとも適所に適材として使用すれば、必ず世の為に益するは異論の余地なし。世の中に生存なすものの凡て不用のもの一としてあるべからず。汝等心して是等を生かして用ゆべし。空しく遠ざけ或は見捨つること勿れ。昔祈禱師は人を調伏する法として一個の箱に蛇蛙蛞蝓(なめくじ)を入れて祈禱台にのせ勤行の終らば、是を当事者の床下に埋めて祈願を成就すとの伝説あり。此実否は別として用法には悪用となり、是を或反面より見れば善用となる。何となれば蛇は蛞蝓を恐れて蛙を呑む能はず。蛞蝓又然り。故に三者は安全となる如く用法によりては、毒も薬となるものなり。
 悪ありて善を知り愚あるに依て賢を知る。されば善悪は世を導く資料となり、賢愚は人格向上の手本とならん。即ち一歩進めば一歩は退くは汝等が世界の習性なり。空翔ぶ鳥は進まんとして却て地に墜ちる悩みあれど、大地を一歩々々踏みしめて進まば却て安全なるべし。
 大智順歩の法を修得せんとならば是等の原理をよく其真相を把握して以て己がものとなさば、得る処の利益は極めて大なるものあらん。汝等は常に我身の安全を計らんとして却て身の危険を招き居る事の多きも、此大智順行ならずして大智の逆行に類する法を行ひあるによりてなり。例へば千金を得る者が八百金の生活を営めば安全なるに引き換へ、千金の生活もしくは其以上の世渡りをなして世を欺き人を羨やませんとせば、自分はもとより他人に迄迷惑を及ぼす結果とならん。是大智逆行となるに依てなり。汝等は身を安からしめんとして却て身を危くす。身を守る剣にて身を損ふ例は尠なからざるなり。されば大智に順歩して完全に護身の法を行ひなば生涯安全に保たるべし。道を歩まんとせば先づ修行を行ふなり。道を歩まんとせば先づ前方に眼を配り、後方には気を配りて歩行せば誤ちは少なき道理なり。然るを左右に気を取られ、眼を奪はれ足許を空にして遂には石につまづき顛倒して身を傷くるを屡々見受く処なり。或は車馬に或は列車にはねられしかれて人命をも損傷する等の不注意をなすは大智に逆行するによってなり。肉体を有しある以上、神の如く通力自在の境地に達するを得ざる以上、不注意ならば身を損ひ他を傷つくる過失はまぬがれ難し。されば此処に相互間に於て相寄り相助けて共に存し共に栄ゆる備へなかるべからず。人は人にして決して神にあらざるなり。汝等智慧優れたる人を見れば、其を活神なりと称して敬ふは誤りなり。唯敬ふはよけれど神の如くに感じなば其処に一つの誤ちをひき起す恐れあれば戒むべき事なり。

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