覚者慈音963 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の五  大智順歩と順逆視法との関係について  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音962
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の六 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  上
大智順歩と順逆視法との関係について


                セイキョウ貴尊 講述
                   2019.5.02
                      231番


 円海老が語りたる我身を捨て一切衆生のために尽さんとの理由は汝等も理解したるならん。即ち一切衆生は我なり。彼を救ふにあらずして、帰する処は我を救はんが為なりとの理なればなり。即ち是は順逆視法の妙味なるこの両法を指導し、監督するは大智なり。されば是に順歩せざれば法は行はれざるなり。大智とは霊なりとは汝等既に知る。智慧と云ふは心意魂魄の指導者なることも亦汝等の知る処なれども、此智慧を求めんとする霊は如何にして智慧を作り出すかについては汝等は知らざるべし。唯これを知るは神なりと考ふるならん。因より一切を造りしは神なり。如何に学問し道理を知るとも此根原に逆上って追求に追求を重ぬれば明答を与ふることは難かるべし。然るを智慧を誘発せしむる原因を知ることは、神ならでは知る由もなきは当然なれども、我、いささか汝等に教ゆべきことあるなり。そは他ならず。
 霊を井戸として智慧を水と仮定して考究せば、大智順歩の法は推察することを得べし。井戸には深く掘りても水の少なきあり。浅くとも清水こんこんとして汲めども尽ざるあり。濁れるあり。硬水あり。悪水あり。泥水あり。水分に多くの養分含めるあり。その種類多々ありて一様ならず。然れども井戸はもとより井戸にして、水はもとより水なれば、井戸と云ふに変りなく、水と云ふに変りなからん
 霊にも異るあり。智にも異るあり。霊と云ふに変りなく智にも変りなし。此理より考察せば人間の智慧には優れたると劣りたるとの区別あることも知らるるならん。汝等の生活に於て井戸を廃して水道を通じて一般の為に清水を送る。是大なる霊よりすべてに送る智慧の水なりとも見らるるならん。斯く考へ及ぶとき汝等は大智順歩の如何に重要なるかについては最も思ひを深くせざるべからず。順視逆視は恰も井戸の水を汲む釣瓶の如し。一方我に来らば一方は彼に至る。是等の比喩より法を工夫せよ。ふりつるべ、はねつるべの如く、一方に偏らば完全なる法を究むるを得ざるなり。汝等位高きを尊ぶとも媚びへつらうことなかれ。たとひ乞食非人なりとも、嘲笑(あざけ)りしりぞくることなかれ。是みな我肉体の各部分なればなり。大智順歩の法については入りくみたること非常に多くして、是を詳細に説明するは此巻にては到底尽し難ければ、一先づ講話を閉ぢて下巻にて語らん。
                   (昭和二十一年一月十一日~二月二十六日)

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