覚者慈音962  未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の五  順逆一体の法則  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音961
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の六 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  上
順逆一体の法則

                セイキョウ貴尊 講述
                   2019.5.01
                      230番


 前述の逆視法については汝等も既にその概略を知ることを得たるならん。然りとせば順視法とは如何なるを云ふかとの質問をなすならん。是についての説明をなして後に一体一如の理を説く事とせん。我、先に逆視について語りし旅せんとして目的地に到るを逆視法より説明せば、行くにあらずして帰るなりと説きたり。然れども是を順逆視法より見る時は、目的地に進むは順視法に属すと見なして可なりとの理となるなり。我より出でて我に行く、即ち順視法として解釈を下せばここに理は明瞭とならん。されば目的地より帰るは、我より我にかへると云ふ理となるに依て帰るとして解釈を下せばここに理は明瞭とならん。されば目的地より帰るは、我より我にかへると云ふ理となるに依て帰るは逆視となるなり。即ち行くと云ふを順視と見るならば帰るは逆視となる。行くを逆視となすならば帰るは順視となる道理あるべし。ものには対象あるによって斯る理論を生ずるなり。されば相対なる汝等の世界を一体ならしめん為には此二法に依らざるべからず。
 例へば太陽に照らされたる我は全身を思ふ時、我と太陽を区分すれば太陽は彼なりと見たる姿は順視法にも亦逆視法にも属せず、唯無為視法に見らるるにて太陽は我なりと見るを順視法として取り扱ふなり。故に順視法より云はば、我は我なる太陽にむかへりと思ひ、逆視法に於ては太陽の我は我身を照す、我身に帰れると見るを云なり。故に今迄此法を知らざりし汝等がすべてを見居たりし法は無為視法と見なせば可ならんか。汝等が余りに物の見かたを不親切に眺め居ると我は思ふなり。鳥の空翔びまわるを見て唯鳥は娯しげなり、我も鳥の如く自由に空飛びまわらば楽しからんと羨み見る等は無為視法なり。鳥を我として見るならば鳥は何の思ひありて翔びまわり居るかを察することを得るなり。されば対象物を我なりと考えへ見るを順視と云ふ。逆視法は是と反対なることは云ふ迄も無し。例へば他人と対座する時、他人は他人なり。我は我なりと見たるは無為視法なるによって、ここに種々なる心使ひ或は気兼等を生じ、所謂他人行義となる。然れども他人は我なりと順視法によらば他人行義とはならずして、ここに一種の親しみを感ずるに至る。是より一層意を深くして我は他人なりの逆視法によらば、彼は我に入り来りて此処に初めて一体となる。是順逆一体の妙法なり。此法による時、もし人に災害の生ずるありとも順視法にて是を知り、逆視法にて防止の法を予知することを得るによって、未然に災害をまぬがれしむるを得るなり。是他人を救ふにあらずして帰する処は我を救ひたるなり。とにかく他人行義は無為視法なれば汝等は他を他人視せざる修行せば自ら順逆一体の法は会得することを得ん。他を自とし、自を自とせざる修行を重ねよ。

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