覚者慈音958  未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の五  内観と外観の関係  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音958
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の六 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  上
逆視法より見たる人生観


                セイキョウ貴尊 講述
                   2019.4.29
                      227番


 己をたてんとせば彼なかるべからず。彼をたつるには己なかるべからずとの意味より考ふれば、我あるが故に家なかるべからず。家を建てんとせば土地及び木石なかるべからず。是等を得んとせば皆其々に要する人なかるべからず。然りとならば皆其々の木石人たちは己の為の人、己ありての人ならずや。斯く考へ来らば彼にあらずして己なりとの理論となるべし。我も人なり。彼も人なり。人と云ふに変りなからん。我は大地に住む。草木も亦大地に住む。大地と云ふに変りあらんやと、詩人めきたる事を云ひたれど事実は然にてはあらざるか。逆視法より説明する時、仏教の説く縁なき衆生は度し難しとは何を指すかと云ふ疑ひの念も生ずるならん。即ち仏教に帰依せざるを縁なしと云ふならばそは縁なきにあらずして来らざるは度し難しと云ひて可ならん。来るも来らざるも縁はあるなり。汝等自他一如の理論は前に述べたると同様にして、いささかも異なりしことなしと考ふるならん。されど前に語りしは唯理論にして法を伴はざれば一席の空論の如き姿となり居りて実行に移すは困難なりしなり。然るを逆視法により是を実行に移すことを得るなれば、よく其原理を充分に把握して修行せば実際と論旨はここに初めて一致を験することを得べし。汝等今迄学びたる内観法は己を知らんとして心の眼に依て霊を見ると云ふを内観の法とし、是の反対なるを外観法として修行し来りしなり。然るに逆視法は是と全く反対となる。即ち己を外にしすべてを内と見なして行ふ方法なればなり。汝等が学びたる静座法は内観法に属し、外を拝する法は外観法に属するは既に汝等もよく知る処なり。然れども是を逆視法より解釈する時、静座座禅は外観に属し、外を拝するは内観に属すと云ふ理由を得らるるなり。例へば旅せんと我家を出でて目的地に到達する迄は外観にて、目的地より我家に帰るは内観となるとの理は、汝等も合点せらるるならん。されどすべてを我なりとの理より考察すれば即ち目的地も我家なるべし。故に行くにあらずして帰るなり。されば外観にあらずして内観の部に属す。然して目的地より帰るは我より彼に来るとの関係となるに依て外観の部類に属すと見なして修行するなり。是を仏教者の云ふ自力他力の説に見る自力は我よりたのみて進むを指し、他力は彼より救ひの手をさしのべるを云ふなれば他力は我を救ふは彼なり。然らば彼は自力なりと云ふ結論となるに依て自他一如の理論と云ふことも見らるるならん。又自力に於ては彼より見れば願ひ来るものは他力と見ることを得るなり。是ぞ逆視法の論旨なり。我、彼となり、彼、我となるの理より編み出されたるは内外自他逆視法にして是に依て順逆を整へ是に依て騒乱動乱を平定なすことを得るなり。

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