覚者慈音956  未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の五  内観と外観の関係  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音956
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の六 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  上
内観と外観の関係



                セイキョウ貴尊 講述
                   2019.4.28
                      226番


 汝等は小我を捨て、大我を得んと口にしながら其意味を審(つまび)らかにせず。是が小我なるか、是が大我なるかと思ひ惑ふならん。然して小我と大我に関して混同するによって大我を小我の如く取り扱ひ、又小我を大我の如くに認識して修行の道をあやまること多し。されど此逆視法に従ひてすべてを処理せばあやまちは少なかるべし。何となれば一切衆生悉皆我なり。一切自我なりとの結論は逆視法の法則なればなり。斯る言葉は云ふべくして行ひ難しと思ふならん。然しながらさとりと云ふはここにあることを考ふべし。例へば汝等異国に遊び居る時、汝と同国人と会見せしならば未知既知に拘はらず其人と親しみを感ずるにてはあらざるか。其理より考へ見るべし。唯同国人とのみにては未知の人と親しみを感ずるとならば、ここに何か潜在せるものを引き出して其原理を元として工夫せば自他一如の法はならぬにあらずして、なすことをせずとの信念は生るるならんと我は信ずるなり。
 同国人が同国にありて親まざるに異国にて親むとせば、すべての人類は地球と云ふ汝等が同界人にして、此すべては異界にて面会したりとの念にて親まば必ずや共通共鳴の道は開らかるべし。斯く語るとも人は実地に直面せざれば教へらるとも実行はなり難し。故に物事に遭遇したる時の心持を忘れず、其思ひを貯えて是に類する事柄に遭遇せば、其心を引き出して観念を深くせば理由は判明するならん。斯くして事ある毎に又事に遭遇するごとに其信念を止めて事実上より深く修養せばならざることもなるものなり。否、ならずと思ふこともなるものなり。汝等今語りし言葉には不明瞭なる点多ければ諒解に苦むならん。さればここに最も会得し易き例をあげて導きとなさん。汝等日々の修養修行をなし居るは何のためになし居るか。我の見る処にては唯何かは知らずいささかにても教へを聞きて智識をたかめんとの修行ならん。さればこそ汝等の修行には真剣味を欠き居るなり。汝等は其日々々を安らかに送り得て、後に修養修行に志さすは普通一般の風習なればこそ、もし生活状態に支障を来し不安定の日を送るに至らば、其が忽ち一変して修行修養などの観念を失して、生活のみに汲々と変ずるならん。かかる故に汝等の修行は全からざるなり。たとえ明日の糧に不自由を生ずるとも怠らざる修行者とならざれば真の明らめ真のさとりは得られざるなり。

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