覚者慈音955  未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の五  内観と外観の関係  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音955
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の六 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  上
内観と外観の関係



                セイキョウ貴尊 講述
                   2019.4.26
                      225番


 内観と外観については前にも語りあれど、ここに説かんとするは全く其意味に於て異なり他のため、或は、大きく一切衆生の為に尽さんとはかるは内外観何れに属するかについて語らんとするなり。汝等先に教へられたる論旨より考察して他を思ひ他を救はんとするは外観に属し、己をたてんとなすは内観に属すと思ふならん。そはもとより道理なり。然りと雖も大智順歩の法には逆視する法あり。此法より観察をなす時是は反対の立場に置るるなり。五味一体によりて他を救はんとはかり、或は他の為に尽さんと計るは内観に属すとの理論となるなり。然して己自らのためになさんと計るは外観に属す。所謂主客顛動の形となる。即ち自らを外とし他を内としての観念より論旨を進むるによりて此結果をもたらすなり。例へば汝等一本の樹木を我ものとして見る心持と、他人のものとして見る心持ちとを比較して考へみよ。ここに異なる観念あらん。我ものとして見るならば成るべく見事なる花を、見事なる結実をと思ひ遣りの心を生ぜん。是即ち内観となるによる。然るに他人の樹木なれば斯る念は生ぜざるならん。我の説く処はここにあり。他人の樹木にても我、是をゆづり受くれば我ものとして寵愛せん。然りとせば内外観の区別はいささか複雑となるを覚ゆべし。自他の区別に依て或は外となり、或は内となる故に此逆視法は他を自とし、自を他として法を行ふなり。汝等仮に位高き人が粗末なるキセルにて煙草をくゆらすを見る時、そのキセルが真鍮なりとも金ならんと思ひ、又卑賎の人が金のキセルを用ても其は真鍮ならんと見あやまることもあるべし。斯ることは内外観逆視法に関して最も需要なる一例なり。即ち衆生救済或は衆生済度に関して先づ衆生を金もしくは真鍮と仮定して考察する時、貧者に済度せられし金は真鍮の価値となり、富者に済度せられし真鍮は金の輝きに化すと云ふ珍現象となる。もとより金には金の光あり。真鍮の光そなはりあらんもたとえ一時にてもかく見あやまらるるに至るは済度者の徳不徳にもよるならん。其は兎に角として内外観関係より見る時、第三者より見たる感想は外観なりとせば、その外観の眼はキセルにあらずして人を見たるなれば、是は誤視したる結果なりと考ふるか。或は其外観法は誰もが持つ法なりと解釈を下すかについて、いささか考へざるべからず。然るとき真鍮が金なる如く見ゆるは高貴の人の徳がキセル迄及ぶとせば、其を見たる第三者の眼はキセルをして其位置を高めしめたるならん。内外観逆視の理はここにありと知るべし。されば修行としては外を内とし、内を外としてものを見てすべての法を行ふなり。然る時は他は自となり、自らは他となりて働きをなすを以てここに自もなく又他もなく一体となるによって、初めて自他一体一如となる。逆視法の徳はここに成立す。此理より観察する時前に語りし路傍の病人の例についても悟ることを得るならん。未知者は外観に属するが故に見すごせども、既知者は内観に属するが故に是を見過すことを得ざるなりとの結論を得るならん。然して今迄の考へを一層強化して未知の人なりとも既知の人の如く内観せば、彼を救はんとの心に変化するならん。その思ひを貯ふるに至るとの理由も知るに至らん。

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