覚者慈音953  未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の五  五味調和と大智順歩について  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音953
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の六 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  上
五味調和と大智順歩について



                セイキョウ貴尊 講述
                2019.4.25
                   223番


 汝等は汝等としての天分あらん。されば其分に応じて順歩の心を起して大智に従はざるべからず。汝等仏教にて説く発菩提心と云へる言葉と大智順歩と同様ならんと考ふるならんも、そは然らず。菩提心とは己渡らざる先に、他を渡さんと発願し営むを云ふならん。されど大智順歩とは自己より起す心にてはあらずして、他より受くる現はれなれば相似て等しからざるなり。菩提心には何かは知らず自己に求めんとなす欲望の潜在しあるによって稍もすれば修行中に心の動揺はまぬがれ難し。されど自己に求めんと欲する慾望なき大智順歩心には斯る動揺は誘発することなければなり。汝等もし路傍に於て病める人を見し時、如何なる心を起すや。唯気の毒なりとの思ひにて行きすぎる人は多かるべし。是は未知の人の場合ならんも、若し知人なりせば見過すことはなさざるならん。直ちに彼の許にかけ行きて何とか応急の策を構ずるは人情なるべし。此場合の心理状態をよくよく咀嚼翫味し見よ。己の為に彼を救はんとの心は夢にも起らざるならん。されば未知の人と知人の区別に相違ある点に意を深くして心理上の研究を計り見よ。未知の人なるが故に我手を下さずとも他に救ふ人あるべしとの観念が脳裡を去来して見過すとならば、知人の場合もし我、彼を見捨てなば後に至って彼は我を無情者と恨まんと考ふるに依て彼を介抱すると云ふ心になりての救助なるかとの理窟も見らるべし。されど斯る場合斯る思ひありてにはあらざるならん。唯知人なるが故にと云へる意識が斯くなさしむるなれば、未知の人の場合には其処に余裕を有する故に考へにも亦余裕を有する結果、其処に他人なりとの感じより救ふべきか他に委すべきかの二心が働くなり。
 元来人には二心即ち行くべきかと云へば止まるべしと答ふる反射作用に似たるはたらきあり。或は此二心は第三者にたつ場合あることは汝等も知るならん。例へば己誤りて自ら負傷なしたる時、自らは痛さに顔をしかめながらも苦笑をなすことを見受くるなり。己が己を傷けて何か笑を催すべくもあらざるに苦笑をなすは、是反射にあらずして己が第三者に立ちたる故なることは、汝等も既に知る処なるべし。此わづかの瞬間に於てすら一つの心は痛みに苦むを、一つの心は嘲り笑ふ。己一つの身体に二方面の働くを見ても二心あることに気附くならん。反射作用にもせんじつむれば二心に帰せしむることもあるならん。是が小児の場合は唯痛ければ泣くのみ。後に笑ひを伴ふこと稀なり。そは二心の働き無き故なり。云はば未だ智能の発達なきに依る。されば此理より研究を進めてこの二心或は三つ四つに別るる心を融和せしめて一体となして霊智の徳に従はば即ち大智順歩の理に合ふなり。大智順歩は特殊の行のみに帰せしむるにあらず。凡ては是に浴せざるはなしと説かれあるなり。仏教の菩提心に於てすら七歳の女竜なりとも此心を起さば既に一切衆生の導師なりと迄説きたり。まして大智順歩に於てをや。汝等よくよく学すべきことならずや。

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