覚者慈音952  未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の五  五味調和と大智順歩について  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音952
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の六 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  上
五味調和と大智順歩について


                セイキョウ貴尊 講述
                2019.4.23
                   223番


 一切衆生は同胞なればたとえ縁の有無に不拘、度することを得んとの確信なれば必ずや救ひの道は開らかるべし。法は知らずとも可なり。唯大智順歩心を起さば必らずや道は得られん。大智に従ふ心は己の欲望をたくましくなしては生ずるものにあらず。総ての為に尽さんとの大願を起すはこれ即ち大智より生ずる命令なり。是に順応せんとなすものは心なり。其心とは如何なる心を指すかと云うふに、是は魄意魂心一体となりて躍動するを云ふなり。魄意魂心一体の心ならでは順歩の業は完全に行ひ難し。実際の術(わざ)は行ふことを得ずとも一切衆生のために尽さんと思ふ心を起すばかりにても既に大智順歩の心の道は開かれたるなり。されば五味一体とならんとし、五味の調和を得んことを願ふならば心意も魂魄も順歩へ止めて専心此一筋に集注せしめなば全く一如となるは疑ひなし。されど汝等我身を捨てて人の為にと云ふにすら中々実行なすは難からん。心の底より尽さんと計るは容易のことにあらず。施すも順歩心なり。愛するにあらざれば起るものにあらず。神は愛なりと云へる教へも大智なるべし。即ち大智に順歩するとは神に従ふと云ふに他ならざるなり。汝等人と生れて神を知らずんば親を知らざる小児に他ならず。行者は己を捨てて一切衆生の為に犠牲にならんと誓詞誓文をおさむる心は如何なる理由より斯る心を起したるかを考へ見よ。己は神より受けし大切なる姿なるに、己を捨るならば其は神の恵に反す。己を思はざると云ふは偽はりなれば即ち己は己に帰せしめてこそ神の恵に順ずるなりと考へて、自己主義を主張するものはあらざるか。己あるが故に己を考ふるは当然なるに、己を捨てて他に尽して何の益かあらんと考ふる人は多かるべし。然るを総ての宗教家も亦教育家も一般教ゆる処は我慾我情我見を捨てて世の中のために尽せよと云ふは同様なるに思ひ及ばば、ここに汝等はその一致共通の言葉に対して反駁の論旨を進むる心は無きか。然して己の心の底より彼等の教へは真実なりとの念を起さずば、常に心は動揺して真の大悟は得られざるべし。己ありての人なり。人ありての己にあらず。されば己を先にして他人を後にするは順序ならずや。然るを己すべてを放棄して他のためにのみ尽さんなどとは不自然ならずやとの反問をも起して此理を明らかならしむる要もあらん。汝等はこの明らめなきによって稍もすれば心は動揺して真の修行に支障来し一時は覚りたる如く思はるれど、直ちに我身にかへるなり。故に五味を整へんと欲せば先づ自他の道理を明らかに心の底より悟るべし。然せば悟道は得らるべし。汝等は人より色々説き聞かされ、又は修養して自我を離れて世に処するは人道なりとの心は、脳裡に止めて忘れざるならん。されどさて是を実行に移さんと計れど行ひ難きは心の底まで徹し居らざる故にて、言葉を聞きてわきまへ居るに過ぎざるなり。教ゆる人も亦同様にして口にする言葉の理は如何に名論なりとも実行を伴はさずば空論にすぎず。教ゆる人にして己行ひ難きことを唯先輩の論説を聞きて取り売をなすのみにては、人の魂心に徹せざるは是非もなきことなり。我、汝等をして行者仙人の仲間入りをなせよと勧むるにあらず。若し汝等の世界の人類悉くが仙人となれば、却て世は保るるものにあらず。行者は行者となるべき法ありてなり。是天の命なるによりてなり。

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