覚者慈音938  未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の五  絶対自然とは如何なるものか  セイキョウ貴尊講義



覚者慈音938
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の六 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  上
絶対自然とは如何なるものか



               セイキョウ貴尊 講述
                2019.4.18
                   210番


 我惟ふに教主の教へには自見他見との区別あらんと考ふるなり。先に語りしは自見に属し、次に語るは他見に属す。即ち第二として考ふべきは五味の木は労力を要せず。小児と雖も容易に栽培し得て枯死する憂なしと云へる事なり。神は地球上に諸々のものををき給ひて其に相当する養分迄添へて是を育て給ふ用意をなし給へるに、人は餓死すると云ふは何事ぞ。是即ち神の恩恵、神の慈悲を知らずして我意をたくましくするによりてなり。五味の木は自然にそなはる五徳ありて己は枯るる事なく、人間を養ひわづか人間界の云ふ一年に四度実を結びて人をも飢えしめざる能力ありと云ふに至りては、汝等は学ぶ処なかるべからず。所謂五味とは心意魂魄霊の五味ならずや此五味五徳備はらざれば人にはあらず。又人としての価値はあらざるなり。五味五徳完全に整ひて人に処して世を益し、又世を救ふ糧となるなり。是天より授かりし使命を全うしたりと云ひ得らるなるべし。然らずば使命を果したりとは云ひ難からん。人は喰はんが為に東奔西走して食を求むれど、五味の木は植えられし所に安住して、然も飢えざるのみか己の力にて他を養育なす力そなはる。汝等の米に於ても然りと汝等は思ふならん。さりながら米は年によりては実を結ばざることあり。五味の木には斯る憂なし。汝等さとりはここにあり。天は人間を五味の木と同様に作り出しあることを知らざるか。
 教主は他の物を例とせず、特に五味の木を引用せられしには深き思し召しある事に留意せざるべからず。即ち人は死すべき道理なき事を教へ給ひしにて、其理を汝等に会得せしめんとの心より是を択びしと我は思ふなり。即ち人間は己の事にのみ囚はれて他を考へず、己安全となりて後にあらざれば他を救はんとの念を起さざるは一般の習性なるを教主は知り給ふにより、五味の木を例に用いられしならん。五味の木は天候如何に不拘地質の如何を問はず繁茂して結実には何等の影響なしとの事柄を、人間の身上に比較して神の大自然の偉大さを知らしめんとせられたるなり。いやしくも神の慈悲は一般にわたって依怙(えこ)のあるべきにあらず。人には人としての深き恵を与へあるなり。然りとせば人には人たるさだめのすべてを具備して授け給ひあるは勿論なり。然るに人間は飽くことを知らずして得たる分度以上を得んとして彼是と迷ふによりて苦は増し罪を犯すに至るなり。天より受けたるもののみに甘んじて生活せば、労苦を伴ふ憂なく安全にして、天の使命を果すことに順ずるを得るなり。 

×

非ログインユーザーとして返信する