覚者慈音939    未知日記 第六巻 光明論    下巻 光明論 巻の五    絶対自然とは如何なるものか

覚者慈音939
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の六 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  上
絶対自然とは如何なるものか


               セイキョウ貴尊 講述
                2019.4.18

                   211番


 例へば労働者には労働に適する恩恵あり。又静にして事をなす者には其職に応ずべき恩恵そなはるなり。貧者の子は却て健康なる肉体を有し、富める者の子は不健康の肉体をかこつを見ても覚る処あらん。是富者の子は分度を超ゆる故なり。神より授かりし職に甘んじ、神より授かりし衣を纏ひ、神より受けし家に住ひて満足なし居らば病も少なく、健康にして働くを得れども、人並みの生活と称して美はしき衣を求め美味佳肴をむさぼり喰ひ高壮なる家に住まんと計るに依て、心をいため身を傷くるに至るなり。是不自然なるによってなり。汝等五味の木の如く己が与へられたる職に甘んじて他を救ふべき実にのみ専念して、其にのみ力を注ぐ修行せば枯死する憂なく、神より愛されて永久安穏の生活をなすを得ると云ふ理論を、教主は汝等に教へ給ひしなり。是自見他見の教へとも見るべきならん。今是等の二道を統轄して結論を下すならば次の如き関係あるなり。
 先づ五味を心意魂魄霊と見なして考察せば、心の味意の味魂の味魄の味と其一々の味がみのりては葉の内に入りて消化され、最後に霊の味が落ちて此処に初めて完全なる結実を
得て全く完成して、多くの人を救ふに至ると云ふ実に調法なる木なり。即ち人間の徳は此心意魂魄霊の五味が融和して組織せられたるにあらざれば、完全無欠の徳は現はれざるなり。五味一体となすべき修養修行をなしてこそ、真の人格はそなはり真の人道を歩むことを得るなり。人の人たる道とは五味を整ふるにありとの理論に尽くと云ふも敢て過言にはあらざるべし。教主が五味の木を引用して汝等をして覚らしめんと計られし厚き情(なさけ)を、汝等は馬耳東風と聞き流し居ては実に勿体なき事ならずや。

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