厳戒の辞  神に通じる言葉  安心してください。これは宗教ではありません。それらを遥かに凌駕する大宇宙の真理の詞(ことば)です。

 僕はいま未知日記という本の紹介を行っています。この本は自己出版の形を取り、一般書店では取り扱っておりません。おそらく今後、皆様の生きておられる間は決してこの書の内容を目にすることはないでしょう。今が唯一の遭遇の機会であると考えます。もし関心のあられる方は、どうかそれを別途記憶させていただけるとよろしいかと思います。あなたのこれからの人生に大きな影響を与える、珠玉の言葉が数多く綴られています。それは人智による言葉ではなく、神智の言葉だからです。未来の地球人類がどのような変遷を遂げていくのか。そして、貴方の死後、貴方の魂がどういった曲折を経て次なる世界に移界されて行くのかも詳しく説かれています。どうぞご安心下さい。これは宗教書ではありません。言うなれば大哲学書とも又、宇宙を科学する書と呼ばれるべき範疇に入るものです。ついでに申し上げれば、この書は現代の人類が読むことを想定したものではなく、ずっと後の、後世の人々が読まれることを基準に書かれています。現在、この書に眼を向けられる人はいまは殆どいないかもしれません。でも、一人でもいい。その人の為に是を掲載してゆきます。
皆さんは一笑に付してしまわれるかもわかりませんが、これを書かれた方は真実、天界で働かれて居られる天使の方々です。百聞は一見に如かず、まずは内容をご一読されてその真贋を自らの頭脳で判断してみてください。
この厳戒の辞は、この書の最大眼目というべきとてもとても大事な祈りの箇所です。単なる祈りではありません。僕はそれを皆さんにお伝えする為に慣れぬブログを始めました。それ以外の目的は一切ありません。



(未知日記の書より厳戒の辞が解説されている部分を抜粋謹写す)



光明論上巻105P~106P  テツシン貴尊講義



教主立座に際し我に申されたる厳戒の辞とは即ち戒めの言葉と云うに似たれど、此言葉には種々際もなき尊敬とか感謝とか服従とかの意味も含まれ、且つ貴尊寛大を呼び求むる意味なども含まれある言葉にして、無量辞とも云ふべきなり。その言葉とは我、行法の巻末に
チ、シュ、キュ、ジョ、ギョ、コウ、フク、セン なる文字を記しおきたり。即ち此一五文字の言葉を厳戒の辞とは名附けられたるなり。もとよりこの句は汝等が国語に簡約なしたるにて、我等が寛大に用ゆる発音とは異なると雖も、その意味その作用(はたらき)その力には亳も異なることあらざるなり。
我今一五文字と称したるを汝等は見て八字よりあらずと思ふならん。故に教ゆべし。即ち、
チ。シュ。キュ。ジョ(ウ)。ギョ(ウ)。コウ。フク。センの一五文字となれば、称ふるに際して、
チ、シュ、キュ、ジョウ、ギョウ、コウ、フク、セン と連続的に発音をなすことをせず、チ。シュ。キュ。ジョ(ウ)。ギョ(ウ)。コウ。フク。セン とそれぞれに明瞭なる音詞を発するを要するなり。(注意 ジョ(ウ)、ギョ(ウ)、の(ウ)は口内に含む故に二字と二字の発音の如くす。)
此辞の句を詳細に説明するには万巻の書を以てするも充分とは云ひ難からん。又言葉にては説き尽くすことは難し。汝等は知る仏教の念仏題目はもとより一切の呪文もこの中に抱含せらるるなり。又汝等懺悔の意味、帰依するの祈りのすべてはもとより、修験者が行ふ九字の秘法等も蓄在さるると思へば可ならん。又是を他に例せば音楽の名曲秘曲と云ひっし。即ち長者の万燈より貧者の一燈なる心持ちを忘れざらんことを望む。
教主、出座立座に際しては心をこめ三称し以て、迎送の礼詞とせよ。此他朝夕臥床起床はもとより、洗面の前後食事の前後、人と応対の前後等々すべて何事をなすにもその前後に必ず三称なすことを忘るる勿れ。是は呪文にあらず。又願望成就の為の願文にもあらざるなり。この他詳細なる説明あれども慈音病みたれば、是にて此講を終了となし、第三巻にて又詳しく説明せん。
                      (昭和二〇年六月一八日正午)
この日肉眼にては何等病める様子には見えざりしが、夜半に至り胆石病のいたみ出で慈音病臥す。然して是より東京市内の爆撃止む。
慈音よ。我等が汝に教へつつありたることは決して無意義にはあらず。汝は天界より是を見るあらん。我等の教へは次第に普及され、一部は削除せらるるあれば、一部は加わる等あれども原本はその儘残されん。各国は奪い合ひて是を読み、東洋は東洋人に、西洋は西洋人に委ねずば永遠の平和は望まれじとの声喧(かまびす)しくなり、日本を滅ぼすなかれの声、次第に起り来たらん。慈音よ汝の努力は決して無意味にはあらざるぞ。悲観せず気力を落とさず、教主の命に従い、生命あらん限り教へを受けて是を中外に発揚せよ。
汝等は厳戒の辞に依って運命の開拓を計るべし。





帰途案内記  143P~147P   セイキョウ貴尊講義



八大門の名称チ、シュ、キュ、ジョウ、ギョウ、コウ、フク、センの僅少一五文字にて全宇宙のすべてを尽くし、きわめある事と承知せよ。我等は是を厳戒の辞と語りおきたり。この言葉は信力にも会ひ、法力にも会ひ、その他森羅万象悉くに通ずる神語なりと思ひて、軽率の取り扱ひなさざるよう注意なしおくものなり。ここに今ひとつ注
意することあり。そは他ならず。シュ、キュ、ジョウ、ギョウ、コウ、フク、センの七つは一四の備へを有し居るに拘わらず、千は唯一文字となりおれり。是に対して世人は何等心づかざるならん。このチの一文字こそきわめて大切なる音にして、チとシュの間には一個の無言詞の言詞が宿りおる事を知らざるべからず。 今日迄、我等語らざりしは教主の許しなかりし為なり。今これが許されたればかたりおくべし。
此発音は非常に大切にして此言葉の如何によって、信力法力は現はるると現はれざるとの境となるなり。千の一字空しければ後の一四音も空しくなり、千の一字完全に発音せらるれば、後の一四音も是に従ふと知るべし。即ち、千とは形の発音にしてシュの間に心の発音をなし、更にシュの形の音を発するにて、千とシュの発音迄は決して呼吸することなかれ。又千の発音を長く引かばそは形を表す音となるによって、一六文字に化せらるる故に、チの発音をなさば直ちに呼吸を止めて、然してシュの発音に移るにあらざれば通ぜず。是等にはすべて法力通力の具備あるによって、少なくしく語らずば解すること難からん。依って具体的に説明せん。
先づチと云ふ言葉は相手方に対して、我より語らんとする合図の言葉にして、シュとの間べく、仮に是を技量劣れる者に教へたりとも詮もなし。彼は秘曲名曲の徳を発揮するに至らず、却って聴衆者の嘲りを受くるに至らん。
厳戒の辞を斯かる事と混同するはもとより僭越に過ぎるやも計られねど、譬喩は先づ斯かることにも通ぜん。唯此辞の徳を覚らず、玩言の如く弄するが如く称ふるとも甲斐なし。即ち長者の万燈より貧者の一燈なる心持ちを忘れざらんことを望む。
教主、出座立座に際しては心をこめ三称し以て、迎送の礼詞とせよ。此他朝夕臥床起床はもとより、洗面の前後食事の前後、人と応対の前後等々すべて何事をなすにもその前後に必ず三称なすことを忘るる勿れ。是は呪文にあらず。又願望成就の為の願文にもあらざるなり。この他詳細なる説明あれども慈音病みたれば、是にて此講を終了となし、第三巻にて又詳しく説明せん。
                      (昭和二〇年六月一八日正午)
この日肉眼にては何等病める様子には見えざりしが、夜半に至り胆石病のいたみ出で慈音病臥す。然して是より東京市内の爆撃止む。
慈音よ。我等が汝に教へつつありたることは決して無意義にはあらず。汝は天界より是を見るあらん。我等の教へは次第に普及され、一部は削除せらるるあれば、一部は加わる等あれども原本はその儘残されん。各国は奪い合ひて是を読み、東洋は東洋人に、西洋は西洋人に委ねずば永遠の平和は望まれじとの声喧(かまびす)しくなり、日本を滅ぼすなかれの声、次第に起り来たらん。慈音よ汝の努力は決して無意味にはあらざるぞ。悲観せず気力を落とさず、教主の命に従い、生命あらん限り教へを受けて是を中外に発揚せよ。
汝等は厳戒の辞に依って運命の開拓を計るべし。





帰途案内記  143P~147P   セイキョウ貴尊講義



八大門の名称チ、シュ、キュ、ジョウ、ギョウ、コウ、フク、センの僅少一五文字にて全宇宙のすべてを尽くし、きわめある事と承知せよ。我等は是を厳戒の辞と語りおきたり。この言葉は信力にも会ひ、法力にも会ひ、その他森羅万象悉くに通ずる神語なりと思ひて、軽率の取り扱ひなさざるよう注意なしおくものなり。ここに今ひとつ注意することあり。そは他ならず。シュ、キュ、ジョウ、ギョウ、コウ、フク、センの七つは一四の備へを有し居るに拘わらず、千は唯一文字となりおれり。是に対して世人は何等心づかざるならん。このチの一文字こそきわめて大切なる音にして、チとシュの間には一個の無言詞の言詞が宿りおる事を知らざるべからず。 今日迄、我等語らざりしは教主の許しなかりし為なり。今これが許されたればかたりおくべし。
此発音は非常に大切にして此言葉の如何によって、信力法力は現はるると現はれざるとの境となるなり。千の一字空しければ後の一四音も空しくなり、千の一字完全に発音せらるれば、後の一四音も是に従ふと知るべし。即ち、千とは形の発音にしてシュの間に心の発音をなし、更にシュの形の音を発するにて、千とシュの発音迄は決して呼吸することなかれ。又千の発音を長く引かばそは形を表す音となるによって、一六文字に化せらるる故に、の無の音は、是より語らんとする目的の意味を、心に工夫して言葉に組織せんとなす間のゆとりに相当す。然して後のシュの音にてそれが言葉となりて相手に通ぜしめ、然してキュ、ジョウと次第に詳しく話を進め、センに至つて全く己が望を語り尽くす結果となると思はば可なり。チとシュの間の無音は、所謂祈念発願の音なれば、要はこの無の音に帰する事の大切なるは、推して知ることを得るならん。然して後の七つが、その祈念発願の意味を、完全に相手方に納得せしむる要具なるが故に、現はしかたの如何によっては、先方は聞き届け呉れるか、或いは聞き届け呉れざるかの、何れかに終る。故に己が目的をはたさんとならば、心をこめて先方に諾と云はしむるに至る底の力なくんば、目的は達し難からん。この理をよくよく認識して厳戒の辞を神に捧ぐるに当たっては、有耶無耶の心持ちにて祈りをなさば、通ぜざること多からん。故に此言葉を厳戒の辞と称したるなり。厳戒の辞とは己が心底より発する真実の言葉を云ふなり。故に無言詞音の間に、己が目的を心の底より現はしをきて、後の音をその力を、更に拡大強力になして他に心を移さず、真剣に願はざれば、諾の許しは難しとの念を強くせよ。然る時は何事も叶えられて決して否とは仰せられざるなり。我願ふ事の善悪に不拘、心の底よりかくと決意したる望みならば神はそのものの結果如何に不拘望を叶へさせ給ふなり。
此法は文面に現はすとも理解は聊か至難なるべし。よって是は指導者によって直接に教へを受くる方納得は速からん。されば慈音はこだま会に於て、会員に対して円海より語らせられたる如く、尺度計を与へんと語り居りしは即ち是なり。さりながら此書は会員ならざる人にも読まるるものなれば、その内容を詳しく知らんとならば指導者の誰彼に至って教へを受くべし。然し此書によって会得理解なしたる人ならば、教へを受けずとも自ずと通ずる拝みはなさるる筈なれば、唯疑はずそれにて可なり。正しくさとれば迷ふことはあらざるなり。迷はずして拝みすれば正しく通ず。兎に角一心不乱になりて無音の時呼吸を止めよと云ひしは、その呼吸を止むる間に念をこらせよと云ふ意味なれば、それにて大要は悟り得る道理あるなり。呼吸をなさば念は砕けて組織されざるが故なり。此事にさへ注意し居らば後の七つに運びを進めて、一つ一つに力を強くし行く事の法は判明するならん。聊か言葉の表現が 不充分にして判断に苦しむならんと思へど、是を分かり易く説明すれば、却って後の結果に危険を伴ふ恐れあるによって、かくも曖昧に語りたるなり。
円海が会員に対して尺度計を与へると語り居りしは、即ち厳戒の辞を正しく用ゆる方法を語りしにて、普通の目盛りしたる尺度計と異なり。是が念力を一段一段と強からしめて、信ずる力を強力にはたらかせ、魂を完全に育つる事を計る術を、尺度計にたとえて伝へんと語りたるなり。完全な拝みを一回二回と重ぬるも、是一段一段と階を上り行くが故に、天界の階段を一歩一歩上り行く尺度計となるは、是理なるべし。世人はこれらの教へを受るに当たり、唯然あるかとのみにて耳をかすめなば、勿体なき事にて所謂猫に小判の譬喩とならん。心して勿体なし、有難しとの思ひを充分心に貯へて教へを受くべし。軽率に聞き流し軽率に取り扱ふことなかれ。もし軽率に取り扱はば転落する憂ひあらん。
是は恐怖心を抱かせんが為に用いたる言葉にあらず。語る者は一心不乱なり。聞く者一心不乱ならざるべからず。教ゆる者、教へられる皆共に心を一にして真剣なる態度にて、伝授にあづかれよと注意するものなり。
チの発音をなさば直ちに呼吸を止めて、然してシュの発音に移るにあらざれば通ぜず。是等にはすべて法力通力の具備あるによって、少なくしく語らずば解すること難からん。依って具体的に説明せん。
先づチと云ふ言葉は相手方に対して、我より語らんとする合図の言葉にして、シュとの間の無の音は、是より語らんとする目的の意味を、心に工夫して言葉に組織せんとなす間のゆとりに相当す。然して後のシュの音にてそれが言葉となりて相手に通ぜしめ、然してキュ、ジョウと次第に詳しく話を進め、センに至つて全く己が望を語り尽くす結果となると思はば可なり。チとシュの間の無音は、所謂祈念発願の音なれば、要はこの無の音に帰する事の大切なるは、推して知ることを得るならん。然して後の七つが、その祈念発願の意味を、完全に相手方に納得せしむる要具なるが故に、現はしかたの如何によっては、先方は聞き届け呉れるか、或いは聞き届け呉れざるかの、何れかに終る。故に己が目的をはたさんとならば、心をこめて先方に諾と云はしむるに至る底の力なくんば、目的は達し難からん。この理をよくよく認識して厳戒の辞を神に捧ぐるに当たっては、有耶無耶の心持ちにて祈りをなさば、通ぜざること多からん。故に此言葉を厳戒の辞と称したるなり。厳戒の辞とは己が心底より発する真実の言葉を云ふなり。故に無言詞音の間に、己が目的を心の底より現はしをきて、後の音をその力を、更に拡大強力になして他に心を移さず、真剣に願はざれば、諾の許しは難しとの念を強くせよ。然る時は何事も叶えられて決して否とは仰せられざるなり。我願ふ事の善悪に不拘、心の底よりかくと決意したる望みならば神はそのものの結果如何に不拘望を叶へさせ給ふなり。
此法は文面に現はすとも理解は聊か至難なるべし。よって是は指導者によって直接に教へを受くる方納得は速からん。されば慈音はこだま会に於て、会員に対して円海より語らせられたる如く、尺度計を与へんと語り居りしは即ち是なり。さりながら此書は会員ならざる人にも読まるるものなれば、その内容を詳しく知らんとならば指導者の誰彼に至って教へを受くべし。然し此書によって会得理解なしたる人ならば、教へを受けずとも自ずと通ずる拝みはなさるる筈なれば、唯疑はずそれにて可なり。正しくさとれば迷ふことはあらざるなり。迷はずして拝みすれば正しく通ず。兎に角一心不乱になりて無音の時呼吸を止めよと云ひしは、その呼吸を止むる間に念をこらせよと云ふ意味なれば、それにて大要は悟り得る道理あるなり。呼吸をなさば念は砕けて組織されざるが故なり。此事にさへ注意し居らば後の七つに運びを進めて、一つ一つに力を強くし行く事の法は判明するならん。聊か言葉の表現が 不充分にして判断に苦しむならんと思へど、是を分かり易く説明すれば、却って後の結果に危険を伴ふ恐れあるによって、かくも曖昧に語りたるなり。
円海が会員に対して尺度計を与へると語り居りしは、即ち厳戒の辞を正しく用ゆる方法を語りしにて、普通の目盛りしたる尺度計と異なり。是が念力を一段一段と強からしめて、信ずる力を強力にはたらかせ、魂を完全に育つる事を計る術を、尺度計にたとえて伝へんと語りたるなり。完全な拝みを一回二回と重ぬるも、是一段一段と階を上り行くが故に、天界の階段を一歩一歩上り行く尺度計となるは、是理なるべし。世人はこれらの教へを受るに当たり、唯然あるかとのみにて耳をかすめなば、勿体なき事にて所謂猫に小判の譬喩とならん。心して勿体なし、有難しとの思ひを充分心に貯へて教へを受くべし。軽率に聞き流し軽率に取り扱ふことなかれ。もし軽率に取り扱はば転落する憂ひあらん。
是は恐怖心を抱かせんが為に用いたる言葉にあらず。語る者は一心不乱なり。聞く者一心不乱ならざるべからず。教ゆる者、教へられる皆共に心を一にして真剣なる態度にて、伝授にあづかれよと注意するものなり。

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