覚者慈音804  光明論上巻 巻の三  82番  教主寛大講義

覚者慈音804
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の三     
          
                  教主寛大 講述
                  2019.1.27
                      第82番



厳戒の辞
チ、シュ、キュ、ジョ、ギョ、コウ、フク、セン

礼拝


 汝等に生死を明らめさせんとして宗教者は自然の代名詞の如く用い居る言葉に「柳はみどり、花は紅」と云へるあり。汝等は是にて満足なすことを得るや。果してさとりを得るとせば汝等は賢明なる聖者なり。「柳はみどり、花は紅」は汝等の世界にては通ずれども他の世界には通ぜず。汝等の世界にても我の語り伝へんとなす処より比較せば、そは平面自然なるによりて立体ならざることを知るに至らん。柳はもとよりみどりの素質を有するは神の作れる処なれば、みどりとして神の使命に背かぬは自然なりと思ふは道理なり。されど是を立体或は内面自然より観察すれば何故に柳はみどりなるかと云ふそのことに迄追究して理を究めずば、真の自然の姿を知ることあたはざるなり。
 総じて汝等は肉体のみ考ふるによって平面となる。されば是に霊とか精神とかを加へて立体の観察せざるべからず。汝等は物の大小軽重を重んずるが故に、時間空間の観念を増して、その観念を深くする結果は疑問を引きをこし、遂には迷ひの道にふみ入るなり。汝等は1+1=2。1-1=0なりと思ひ居るに、我、もし1+1=1。1-1=1と云はば汝等は無法の論説なりと一笑に附せん。されど物の大小軽重を論ぜずして考ふれば、
水+水=水。水-水=水なりと云ふとも理解することを得るならん。されば1+1=1。1-1=1。と云ふの理も理解することを得ん。是は決してこじつけにあらず。立体自然の理を汝等に教へんとなすにあたり、先づ第一に必要と思ふ汝等が今迄の考へを一掃するを要する必要となすに依てなり。汝等如何に利発賢明なりとも、わづかなる地球の一角に在りて全宇宙の広大を推知するは難し。又我、是を語るとも汝等に認識せしむることも尚かたし。何となれば汝等に語らば小児のお伽噺か、或は空想者の小説の如き感じを抱せるにすぎずして、何等の効果をも得る能はざればなり。然りとせば汝等が智識の程度に従ひて説明する他なからん。されど汝等の智識の程度は余りに低くして理解を与ふるには極めて困難なり。ここに於て我の教へを受けんとなす者の中に、いささかたりとも悟り得たる者あらば是を程よく塩梅して理解し能はざるものに丁寧懇切に諭し導けよと命ずるなり。
 静の中に動あり。動の中に静あり。静と動とは一体の関係ある事は、汝等既に知るところなり。汝等の持つ時計は指針は動にして文字盤は静なりとの観察は平面自然にして、立体自然より観察せば指針文字盤はもとより時計全体は動静一体の動となり居るなり。故に汝等が思ふ静と立体より現はるる静とにはここに誤差を生ず。汝等が考ふる動は案外静に属し、静も亦動に属するためしは往々少なからざるなり。汝等秋の太陽を全身に浴びて野外に横臥して大空を見て静かなりと見れど、此処には悲喜交々至る電波の動あるに心つかざるならん。汝等が口にのみ静中に動あり、動中に静あり。静動は一如一体なりと悟れる如く、又悟らざる如きことを称へ居れど事実に直面して何等の得る処なきは遺憾なり。汝等は動くものを動とし、動かざるものを静と見るは誤なり。是は平面自然の考へにして立体にはあらず。汝等は休むと静の区別を明白にせざるより、是が混同して判断せらるる時、其によって大なる誤解を生じて過誤を引き起すこと屡々見るなり。文字を認めずば筆墨は唯休み居れど是を静と断ずるはあたらざるなり。仏教にて一切衆生悉皆成仏と云へる言葉は実に当を得たる名句なれども、中にはあやまり覚れる者の多きはまことに遺憾とす。汝等深く此句を味はいて此理を究めんことを望むなり。この言葉より推知するも動静一体生死一如の原理を把握認識することを得ん。

×

非ログインユーザーとして返信する