覚者慈音795  光明論上巻 巻の一 73番 霊界に学ぶ者信仰を厚くして我等の語る処の教ゆる道を疑はずば迷ひ迷はさるべきうれひなからん  テツシン貴尊講義

覚者慈音795
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の二     
          
                         
                  テッシン貴尊講述
                  2019.1.25
                  第73番


教主、曰く


「霊光を蒙りて尚疑義をさしはさむは食を得て満腹を感ぜざるに等し。信仰うすければなり。霊界に学ぶ者信仰を厚くして我等の語る処の教ゆる道を疑はずば迷ひ迷はさるべきうれひなからん」


 疑は人間に多し。然れども霊界に学ぶ汝等にして疑ひを抱くは真にあさましく感ずるなり。教主は是を憂ひ給ひて特に此誡めをなされたり。慈音は無学にして盲者なれば汝等、彼を徳高きとは信ずる能はざらん。又彼は高徳の人間にはあらず。されば此書を否、講義を特に彼に命じたるなれば汝等は奇異の感に打たれ、彼の盲者が隙つぶしに彼の智慧にて斯る空説を認めて、是を神懸りとか霊感なりとか云ひふらしあるにてはあらずやとの疑義をさしはさむ者もあらん。慈音はいたく是を怖れて我等の説く処余りに程度すぐれば、我等に是が修正をさへ要求なしつつあるなり。我等は是に対していたく誡め居るなり。慈音の心中苦慮まことに憫なりと云ふべし。
 教主は是を知り給ふ故に疑義をさしはさまざるよう信仰を厚くせよと特に仰せられ給ひしなり。実在的の事柄すら信ををくは難きに、ましてや霊界の如き空なるに至っては信ずるを得ざるは尤もなれども講義のすべてをよく翫味し不分明なる処は考案に考案を重ねて霊をよび、教へを受けて信仰の度を深くするならば、自づと汝等の向上発達の道は開かるべし。何ぞ慈音に彼是の批評を与ふるの要はなからん。責は此講義にあり。たとえ高徳の聖者の論説なりとも理に合はずば聴くによしなく、一野人の話にも理あらば用いて益とならん。比喩に「負ふた子に教へられて河をわたる」の言葉あり。汝等彼の人は高徳なれば信ぜよ。彼は不徳ならば信ずる勿れとてとかく論説よりも人を信ずるは宜しからず。人格の価値を論ずることなく論旨の可否に意を用いて修行し、信仰の力を厚くして最後の地点に到達せんことを願ふべきなり。故に我は前にも説きたる如く来る者は親切に導き、去る者は追ふべからずと云ひしも是なり。是あるに依てなり。
 汝等は眼前の事にのみ囚はれて真実の一大事を悟らざるによりて教へを受くるも徒らに遠方の火災の如く感じて、信仰を持ちながら道を修めんとはなさざるなり。例へば今講義をきき居る時空襲警報の警笛吹鳴さるれば、浮腰となりて講義は脳中にびびかざるならん。斯る有様にて真の信仰は得られじ。霊界に学ぶ者たとえ頭上より火の雨降るとも小我を離れて、大我を得んとの信仰あらば何か恐るることやあらん。是は真実腹の底より恐れざるに到る迄の信仰ならざるべからず。附焼刀ならば却て負傷すべし。不安なれば偽はらず告白して退却するは附焼刀に比して遙かに勝る。若し教主講義の際恐ろしき大蛇を汝等が面前に現はし給はし給ひなば、汝等は驚愕してなす処を知らず、右往左往して逃げ惑ふ者、或は卒倒なす者等あらん。斯る信仰にては真の信仰にあらず。又生死を明らめ居るとは云ひ難からん。
 霊界に入り霊光を蒙りてかばかりの事柄に驚愕する信仰は霊光にうるほひて、霊光の徳を知らざるなり。故に教主は喰ひて満腹を知らざると同様と仰せられたり。汝等の腹は底ぬけならば知らず、さなくば満腹すればその上腹を破る迄は食せざるならん。霊光は喰へば喰ふ程腹を強くす。然していよいよ身体を強健ならしむる霊薬なり。汝等の食物は腹八分目なれど霊光は腹一杯取り入れて可なり。霊光の威徳はかくれて働く神薬なればなり。

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