覚者慈音793  光明論上巻 巻の一  71番  テツシン貴尊講義

覚者慈音793
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の二     
          
                         
                  テッシン貴尊講述
                  2019.1.23
                  第71番


教主、曰く


「銘鏡をうけたりとも濫に濫用せば鏡に破損汚損のあやまちはまぬがれざるべし」


 人は珍らしき物を求め得たれば是を他人にも示めして誇る弊風あり。斯ることは聖人君子と云はるる人にすらありと伝へらる。汝等に於て斯る明鏡を受けたればいよいよ其徳を他人に誇らしくせんとなすを教主は誡められたるなり。恰も通力を得て飛行する仙人が乞食のため顛落せしめられし如く鏡も亦傷く怖れあるなり。汝等善悪因果鏡の話を聞きたる事ありや。知ると知らざるに不拘ここに例話として語らん。
 或処に心清き乙女ありしが其清きを愛せられて聖者は一体の鏡を彼女に与へて、曰く、「日々朝夕この鏡を見てすべてを行ふべし。元来この鏡は善悪の区を明らかに示めしたる宝鏡にして善を行へば善の徳あり。悪には悪の報あることを知らしむる依て善悪因果鏡と云ふなり。今汝の心正しきを愛して是を与ふべし。此鏡に依て善をなし、悪を避けよ」と云ひて与へたり。乙女喜びて朝夕是を見て善を行ひ居たり。是を見たる悪魔如何にかして此鏡を奪ひ取らんと計りしが乙女油断せざれば望みを達する能はざりき。或時悪魔は聖者の姿に変じて乙女の傍に来りて、
「汝に与へし鏡はくもりて善悪顛倒して写り居れり。依て我、是を改めしむればここに持ち来れ」と。乙女聞きて秘しある鏡を静にうかがえば、そは真の聖者にあらず悪魔なりしかば如何にせばよからんと鏡に問へば、「恐れず持ち行け」と云ふに乙女は悪魔の前に持ち行きしに、悪魔は鏡を奪はんとて手をさし延ぶれば、鏡は赫々と悪魔の眼を射たるため眼くらみて通力を失ひ、蒼惶として逓げ失せたりと云ふなり。その時真の聖者来りて云ふよう、「乙女よ、汝は真の信仰厚き者なり。若し悪魔を我と思ひて鏡を見ずして彼に渡せば、取り返へしのつかぬ大事を引き起すに至りしならん。然るを鏡を信じたればこそ悪魔の手をのがれたり。この後とても油断なく行ぜよ」と諭したりと云へる例話なり。
 我此因果鏡の例話をここに説きしは他ならず。教主が仰せられし明鏡を受けたりとも、濫に濫用することなかれとの理由について関係あればなり。即ち汝等をして乙女の如き信仰を得せしめんがためなり。汝等は明鏡を受けたるは聖者より与へられたる乙女に匹敵す。若し汝等にして乙女の如く日々この明鏡に随従して行へば、決して誤を犯す憂なし。然れども汝等の隙と油断をねらふ者は悪魔なり。悪魔は汝等がうけたる鏡を如何にかして奪はんと企画し居るなり。汝等濫用すれば忽ち悪魔に奪はるるは必定なり。若し悪魔、教主なりとか或は我(テッシン)なり、セイキョウなりとて、汝等に到ば汝等は直ちに彼に欺かるべし。此時自ら一度鏡に向かひてよく訊ねて悪魔に向はば悪魔は看破されて退散せん事疑ひなきなり。
 汝等は受けたる明鏡を他人に誇らんなどとの観念を生ずるなかれ。他人に誇らんと欲するは自我心なり。自我心は明鏡を汚損するどろまみれなる布の如く、直ちに明鏡をくもらすに依てなり。又余りに濫用せば他人は是を羨み妬みて反駁し来るあり。或はその法に浴せんとて来りて却って汝等を喰ひ物にせんと企むあり。とかく世の中には聖道を売物にして私腹を充たす不逞の輩多ければ、斯る悪習に陥らば明鏡は全く汚損せらるる恐れあれば、身を慎み唯明鏡の威徳に従ひて油断なく、第三第四明鏡を受くる迄の辛抱は大事なり。即ち第一の鏡は霊界の幼稚園にして、第二は小学校第三は中学校第四は高等学校第五は大学の如き関係あればなり。されば今汝等は小学校程度の鏡の学課を学び居て、是に依て得たる智識を最高と心得なば従って他人に誇り度き観念は生ぜん。教主は是を戒めて濫用を禁じられたるなり。即ち汝等が俗言に生兵法大怪我の基、是なり。心せざるべからず。小学中等部は人間を作る基礎的学問ならずや。故に小学の汝等なれば其意味を深く心に貯へて中等の学校に学ぶべき課目を得る迄の勉学に専心努力して入学試験に合格すべき智識を備へをくこと肝要なり。明鏡を得たれば汝の心は暗からず。光明は輝く。輝く光明は汝等を照さん。照らされし光明に道は明るし。迷ふことなけん。

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