覚者慈音64  未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の壱  如意界を離れて

未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の壱                                NO 24
如意界をはなれて何処に行くか   その2          
                                                            教主寛大 講述


 座禅するも拝みなり。静座するも拝みなり。手を合わせ頭を下ぐるのみは拝みにあらず。禅宗の言葉に平常心是道と云ふあるならん。平常心とは心を平らにして乱さずば、即ち道に合ふとの教へなるべし。心平ならば苛たつこともなく常に明るし。明るき心は拝みなり。心明るければ外を願ひ外を求むるの必要はあらざるならん。心苛たち迷ふが故に、何かその苛たちを沈静んとして外を求むるなり。是即ち、かなはぬ時の神だのみに等し。心平なれば叶はぬ時の神だのみなどあるべき理なし。是即ち拝みの徳なりと知るべし。自然に与へられ居るものに満足し居らば、余分なるものを求むるの要もなからん。満足なし難き心は乱れなり。乱るる心ををこすは拝みの正しからざるによる。手を合はせ頭を下ぐるは何か求めんとする依頼心の拝みならん。或は手を合わせ頭をさげて心の動揺をしづめんとする一種の方法なるによって、その処迄の拝みは正し。されどその拝みによって何ものかを願ひ求めんとするは、欲望にして尚も乱るる心のひそまれあることに留意せざるべからず。助け給へと願ふとも願はずとも、神は正しき行為をなし居るものに対して、何ぞとがめのあるべきことなし。救ふべきものは救ひ、救ひの要なければ如何に願ふとも、神は許し給はざるによってなり。諸子はこの事柄を心に深く銘じて、日々の任務に対して心を平らになして迷はず、業務にいそしみ居るならば、神は決してそのものを苦め給はざるべし。苦を求むるも楽を求むるも、汝の心一つにあるなり。
 神を知ると知らぬに不拘、汝は日々生存しつっあるにてはあらざるか。生存しつっある以上何ものかが、汝を支配なし居るならん。とせばそのものこそ汝より優れたるものに己のすべてをまかする底の心掛けあらば、生かすも殺すも皆すべて其者の力なる事に思ひを廻らさば、汝の心は安かるべし。すべては心の持ちかたなり。頼むべきものは他なし。すべては汝を支配する何者かの力なるべし。神を知らざる人と雖もその事柄のある以上、己より勝れたるものは己を生かし呉るる何者かにして、其者こそ我より勝れたる者なりとの念を深くせば、それにて心安らかならん。すべては心の持ちかたなり。心の持ちかた一つにて或は苦となり或は楽となる。初心者はこの心がけ以てすごし居らば、其にて正しき拝みを得らるる事と承知せよ。然してその心が次第次第に拡大強化せらるれば、従って其以上の智識は得られて、増大し果ては真の神を知るに至らん。是即ち拝みの法なり。余事に渡りたり。もとに復すべし。
 如意界を離れて九流界の方向に向はせられたる魂は如何にと云ふに、是にも種々様々の相違あり。九流界と雖も一様ならず。三段階五段階と別れ居るなり。故に送らるる魂も千差万別なれど、十流界とは全くその居を異にす。一段階上流に置るれば従ってその生活のすべてが異なる事は云ふ迄もなし。 九流界に置かれたる者と、上位に置かれたる者との差は非常に事なり居りて一様ならず。先づ下位の方向より語るべし。九流界の下位に移さるる魂の中には、母胎を通じて生るるもあり。又相当の人種に入魂するもあるなり。是等は上中下の階悉く同様なりと知るべし。九流界の最上部に置るる魂は、或一定の形を作りて現はるるも稀にはあるなり。八流界以上の階に進むものは大旨形を作りて現はるる者多し。されど八七流界と雖も母胎をかりて、現はるるものも亦少なからずあるなり。その悉くが一様ならず。是をくはしく語り居りては枚挙に暇なし。故に省略す。又是等の事をくはしく知るの要もなからん。母胎をかりて生れたるものは、十流界の人間の如く年長けて妻をめとり夫に嫁して生存することは、汝等諸子の世界と異なる事なし。されど魂換して移されたる者は、妻を娶らず夫に嫁することもあらざるなり。是等は汝等諸子の世界とは異なるものにて、汝等諸子には語るとも理解する事はあたはざるべし。されど斯るものもある事を知りをかば可ならん。

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