覚者慈音63 未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の壱  如意界を離れて何処に行くか   教主寛大講義



未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の壱                                NO 23
如意界をはなれて何処に行くか   その1          
    

                                             教主寛大 講述


 我等と雖も日々拝みを休みしことなく持続なし居るなり。何を目的として拝むとか、何に希望を抱きて拝むとか云ふ如き片寄りたる拝みをなす勿れ。我、汝等の拝みを見るに片手に数珠を持ち、片手にものを殺生しながら拝み居る人あり。斯るものは拝みするにあらず。時間つぶしの悪戯者なり。口に念仏しながら人を謗る。是等もみな空虚なる拝みにして、真の拝みにあらざるなり。此世を安楽に暮らして未来も安楽に暮させ給へと云ふが如きも、信仰の拝みにあらず。この世の安楽とは肉体の満足を願ひ、来世の安楽とは魂の安らかならんことを願ふならん。是等はいたづらの拝みに過ぎざるなり。汝等衆人の拝みはすべてこの類の信仰より、御都合主義の拝みをなし居るによって、真の信仰を得ることを得ず。動物性を抜け出づることすら難からん。早くめざめて真実正しき信仰者とならざれば、人間界に入ることを許されざるべし。いたづらの拝みをなす勿れ。いたづらの拝みは信仰にあらずして、迷信となるなり。
   
如意界をはなれて何処に行くか


 如意界の修行なりてその後何処に移さるるか云ふに是よりは二道に別るるなり。即ち一方は九八七流界の方向に向かひ、更に一方は無言詞界の方向に向ふ。所謂この二道のうち九八七流界に向はせらるるものは居を定められて、此処に暫く新しき生活を営むなり。この九八七流界の方向に向はせらるる者の中には、種々様々の修行を異にしたるもの多し。この中最も注意すべきものは優れたる才能を有して特殊の行によって、引き上げられたる動物魂もあるなり。
 未知日記に於て語りたるクウワオなどはその一種なり。この他に悪行を習得して業にたけたる動物魂は又別の処ありて九八七流界は許されざるなり。是等の動物魂は別のところにて一種異なりたる魔道を作り、然して他界の正義を乱さんと謀り居るもあるなり。是等に関しては折りあらば述ぶべし。九八七流界に其々に移されたる魂の事より先に語るべし。同じ魂にても正しき道を歩みて移されたるクゥワオの如きは、正しき道を歩み来たりて尚も正しき行ひをなし居るによって、彼等は速かに人界に移され度しとの念強きが故に、動物性を厭ひて早く死にたしと嘆き居るなり。畜類に於てすら魂を有する動物は行の如何によって、昇天の道は開らかれあることに、汝等衆人よくよく留意せよ。( 畜類に魂あることは未知日記に於て述べたればここには省略す )正しき道を択び曲りたることすらなさざれば、動物と雖も安楽の界を与へらるると知るならば、人間として全き魂を受けたるものにして如何でか安楽の上に、安楽を有する処に引き上げらるるは当然ならん。
 完全なる魂を与へられながら、人は人としての本分に服さず、人間の任務を粗略にして動物の行為をなすことにのみ汲々たるによって、天界はおろか選魂界にすら入ることあたはざる底の人の多きは、実に嘆はしきことならずや。諸子は常に動物魂のみはたらかせ、人間魂をおろそかにして、己の分野を全うするあたはざるは如何なる理由に基くやを、よくよく考慮、思惟せよ。兎に角推進力を延長して動物魂を人間魂に従はしめて、共に進みなば道は明るし。汝等衆人は光を背にして歩むが故に、道は明らかならざるなり。所謂提灯もちを背後に従へて歩む等し。故に是等の事柄より人間魂は提灯にして、動物魂は姿なりと思ひて進まば前途は明らかならん。肉体に囚はれ居りては前途はくらし。光明を得んとならば精神によらざるべからず。肉体には影あり。精神には影なき光明なるが故に、迷はせらるるものにあらざれば、この理に基いて道を歩まば迷ひなくして至る所は判明せん。照らすと云ふも拝みなり。拝みする事によって照り輝く。拝みの力強ければ光の力も愈々加はる。光の力加はらば前途は明らかに照らさるるならん。考慮すると云ふも拝みなり。物事を考ふるは拝みの力を誘導する方法なるによって、湧き出で来るなり。是即ち拝みの力なり。新しきものを発見せよと云ふも考慮より現はる現象ならん。然りとせばその新らしき道を、考へによって引き出したるものは即ち考へなるべし。その考へを引き出すものは即ち拝みの力なり。我、斯くも曖昧なる言葉を以て語る時、諸子は如何なる意味かと思ひ煩ふならん。是即ち拝みなり。我の拝みせよと云ふことはすべて是等の事柄に帰す。我の言葉に対して諸子は苛つ心は分別になやむ故なり。分別に苦まば何かその奥に潜在しあるもののあるによって苦めらるるならん。
 禅宗の言葉に不思慮底を思慮せよと説きあるもすべては是なり。不思慮底を思慮せよとは考へに及ばざるが故に、拝みせよとの意味ならん。拝みをなし居らば、何かは知らず思ひもよらぬ現象の現はるるものなり。その拝みをなすに際して何かここに一種の頼むべきもの、たよらるべきもののありやに対して、何か目標を定めざるべからず。その目標が何ものかに対してここに万策尽きて、神とか仏とか云へるもののありはせぬかと一種の空想より、先づ其らのもののありとしてそのものにたよらんとする現はれが、神ともなり仏ともなりて現出し来るなり。是等の事に関してむつかしき文字を用いなば、汝等衆人も却って納得が早からんとは思へど、この場合むづかしい文字を羅列しをかば後に至って読むものなかるべし。故に平易なる言葉を用い居るなり。のみならず、汝等衆人を迷はせて、その迷ひより種々と想像工夫させて、其によって覚らしめんと計り居る計略なりと思ふも可ならん。要は悟るにあるが故なり。是等もみな拝みの部に属すと知るべし。

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