覚者慈音56  大霊界 如意界とはいかなる所か その1  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の壱                                NO 16    如意界とはいかなる所か   その1                         
                                               教主寛大 講述


 如意界については「未知日記」に於て教へをきたればくわしく語るの要もなし。されど語り残せし事柄をいささか説明して補充しをかん。如意界は洗魂所より移されたる魂を試験する場所にして、所謂完全なりや、否やをためす所なり。諸子の中には肉体を有する間に行全くなりて、此所に運ばるるものも多し。慈音の如きもその一人なり。ミキョウは慈音をここに連れ来りし時、種々様々の事を考ふる勿れとかたく誡めたるも、此所は直ちに意の如くせらるるによって危き事を考ふれば、直ちに目的の如くなる場所になるによってミキヨウは警めたるなり。されば如意界とは如何なる事を学する所かと云ふに、此所を離れて、次の任務に服するものに対して、皆其々の方法を伝授する所にて、此所に集まり居るもの無念無想の姿となりて、その教へにあづかる大切なる場所なれば、誰一人として声を発するものもなく粛として謹聴して、教へにあづかり居るなり。その神々しさの有様は汝等衆人には、到底考へも及ばざる底の場所と語るの他なし。教ゆるものも声なく言葉なく無言詞にして伝授なし居るに不拘、聞くものには皆その分野に従ひて、自然に理解力を認知して、さとり得らるる不可思議なる教へをうくる所なり。教ゆるもの語らず、教へらるるもの聞えず、沈黙の裡にさとりを受くると云ふ如きことは、下界にある汝等諸子には到底想像もなし難からん。
 選魂階及び洗魂階更に如意階と区分せられ居れど、それは帰するところは一なり。例へば一つの学校にて教室が異なると同様と考へなば可ならん。ミキョウは何故に慈音に様々の事を考へつつ聞く勿れと教へしは他ならず。もし慈音が如意界に於て天界に行きたしと思ふ心の湧き出づるならば、直ちに肉体を離れて目的の方向に向はしめらるるによって、ミキョウは誡めたるなり。慈音にはその後励むべき役目を有し居るによって、此処にて肉体を離れなば、たとひ目的の地に移さるるとも亦返さざるべからす゛。其時肉体が荼毘に附せらるるならば、唯々宙に迷ふの他なきを知るによって、ミキョウはかたく戒めて聴聞せしめて、彼の修行の力を養育したるなり。

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