未知日記霊話集千六百二回  帰途案内記 NO 21 遊びて福徳を得、然して健全なる肉体を祈りて求むる如き愚なる考へを以て、神を信ずる如きは愚も亦甚だし。斯る宗教者のあるがために世は向上発達せず、却て陰謀を企む悪魔の俘虜となるは、かかる迷信の結果より生ずる現はれにて真に憂慮に堪えざるなり  セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の一
大序の巻 
NO 21
セイキョウ貴尊 講述

                  
 人間性にて終るならば修養の肥料をあたへずとも、野育ちに育てなば藁をのばしたるにて終らん。人を作らんが為に修養の肥料を施さずば稔りは得難し。斯ることは誰もが知る処なるに不拘人間は人間にて終らばよしとの愚説を弄して、徒に世を攪乱する如きは憎みても尚余りある事にてはあらざるかと思ふなり。人間を育てて真の人をつくるこそ是天より授けられし使命なることに心づかば、かかる愚説を弄することはあらざるならん。人間としての喜怒哀楽と、人としての喜怒哀楽には大なる相違あることを知らざるべからず。人を憎み世を呪ふ如きは人間性にして、所謂動物の心に他ならず。仇するものを憎むも亦動物性なり。人としての憎しみは所謂罪を憎めど人を憎まずの心なるによって、同じ憎みかたと雖も人間と人との憎みかたには相違あるなり。罪を憎みて人を憎まざる底の修養は人なればなし得らるる術もあらん。されど仇する人を本心より愛すると云ふことは、人以上のすぐれたる智慧を有するにあらざればなし得らるるものにあらず。故に人間性をはなれて人となり、然して人より更に智慧を磨きてこの居に迄到らしめるにあらざればすぐれたる人とはなりがたし。是をなさんが為に修養修行の大道を進まざるべからず。
 仇する者を愛する本心を有するに到らば、ここに人間界を度脱してはじめてさとりの境涯に達したる人となる。この位置に達してはじめて天界のすべてを明らかにきはむる事を得るなり。是天界に到る順路と云ふなり。
 信仰とはかくの如きものにて神に願ひて肉体の病を治癒するとか、或は財宝をめぐまるると云ふ如きあさはかなる信心ならば、種々様々の宗教に惑はされて空しき行をなさんより働きて、金を儲け病(わづ)らはば医薬によって平癒の道は開らかれ居るにてはあらざるか。是即ち神の恵み給ひし恩恵なるにも不拘、遊びて福徳を得、然して健全なる肉体を祈りて求むる如き愚なる考へを以て、神を信ずる如きは愚も亦甚だし。斯る宗教者のあるがために世は向上発達せず、却て陰謀を企む悪魔の俘虜となるは、かかる迷信の結果より生ずる現はれにて真に憂慮に堪えざるなり。

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