未知日記霊話集千五百九十一回  帰途案内記 NO 10 我、慈音を如意界に誘ひしは即ち慈音を乗せたる昇降機の役目をなしたるに他ならず。故に慈音は下界に居ながら我と云ふ昇降機に乗りて、如意界と下界を往復なしたりと思はば少しは世人も頷くところあらん。時間空間を有せざる我等なるが故に下界上界の距離はなく、又時間空間の長短もあらずして自在に慈音を案内なし居ると想像せば其にて可ならん セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の一
大序の巻 
NO 10
セイキョウ貴尊 講述


 我、慈音を如意界に誘ひしは即ち慈音を乗せたる昇降機の役目をなしたるに他ならず。故に慈音は下界に居ながら我と云ふ昇降機に乗りて、如意界と下界を往復なしたりと思はば少しは世人も頷くところあらん。時間空間を有せざる我等なるが故に下界上界の距離はなく、又時間空間の長短もあらずして自在に慈音を案内なし居ると想像せば其にて可ならん。
 今も語りし如くこの如意界は心の欲するがままに現出するが故に、問へば忽ち答へを与ふ。思へば意の如く現出するが故に、見んと欲せば忽ち見ることを得、聞かんとすれば忽ち聞くことを得。この様は即ち下界にも及ぶが故に、人間の肉体にも伝はりて所謂自問自答の法は行はるる原動ともなり居ると承知せば可ならん。もし此階のさだめなくんば人間の心に是非の区別を想像することすらあたはざるべし。その想像力の湧き出づるも即ちこの階のさだめののびて、人心にも及び居ると知らば少しは頷くところはあらざるかを、是又考慮して智慧を磨く材料とせられたし。
 宗教心強き者と又無宗教論者との関係に於てここに大なる相違あることに眼をむけざるべからず。
 近代の如く宗教心なき者多きが故に、浮住界に到りて苦む者多きを我等は遺憾とす。宗教信仰者は迷信にもあれ或は正信にもあれ、とにかく神仏を信ずるが故に生命終らば浮住界に到らずして、直ちに如意界に来る者少なからずあるなり。故に如何なる宗派を問はず神仏を信ずる者は、浮住界を直ちにぬけ出で然してこの所に達す。されど神仏を信ぜざる者は浮住界をぬけ出づるあたはずして永久苦み居るなり。仏教にてはこの浮住界を地獄と称へ如意界を極楽と称へ居るならんと我等は考ふるものなり。ここに二三の例をあげて其によって種々様々の事柄を語る事とせん。

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