未知日記霊話集千四百六十回 大霊界 無言詞の働きは空に属するか その14 汝等諸子は旦にめざめ夕に眠る。この界は時間空間なきが故に、分秒も休む隙はあらざるなり。汝等諸子の眠り居る間も我等は働き居るなり。諸子の如く疲れたりとて身を横たへ、退屈なりとて物見遊山に行く如き気まぐれの行為をなすもの一人としてあらざるなり。任務するが故に楽しきなり。勤めなければ退屈とならん。つとめはたのし。故に我等は楽しみより楽みの連続にて苦みと云ふことを知らざるなり  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の三                        NO143 
心に伝ふる無言詞と魂に伝ふ無言詞の相違  
その14                                                   教主寛大 講述


 汝等諸子の世界に於てすら科学の力進みて、地球は小さくなりたる感じを抱き居るならん。何千年以前の地球ならば機械器具の備はりなきが故に何処に行くも足を運ばざるべからず。斯る時の地球と現在の地球とは比較にならぬ程小さくなりたる感じあらん。僅少の時間にて地球を一廻転なす飛行機もあり。秒速七回半もなす電波を送る機械も備はり居る今日、地球の余りに小さくして狭隘なる姿を、諸子はまのあたり見聞なし居るにてはあらざるか。全宇宙は広大無辺なれど無言詞を聞く力備はらば、時間空間の必要もなく又距離の遠近もあらざるなり。距離の遠近なければ全宇宙は汝等諸子の脳中に納らん。然りとならば全宇宙は汝等諸子の脳中のものなるべし。大きく見えて大ならず。されど見聞の力備はらずば、広大無辺にして是を究むること難し。全宇宙は大小の区別はあらざるなり。大小の区別するはすべて汝等の心ならん。我と慈音とは汝等諸子の世界の距離にて考ふれば、幾千極倍もへだたり居れど、距離をとり去らば慈音の脳中に我は宿りて語り居る姿とも見らるるなり。距離を考へずば座側に居るに等し。無言詞界とは如何なる所か。是を汝等諸子は知りたしと思ふならん。されど知りたりとて己がものになすにあらざれば、何等の用とはならざるならん。唯見るのみ聞くのみにては、斯る所のありと知るに過ぎざるなり。又是を諸子に知らしむるに諸子の力が、否心魂の程度があまりに低き故に、感知せしむることは困難なり。何となればこの所は筆舌の及ぶべくもあらざるが故なり。あるが如くなきが如く姿を連想して考へ居らば、如何に語るとも到底是を知らしむることは得難し。斯く語らば諸子は虚空を吹く風の如き所かと連想するならん。されど然らず。されば光の珠が右往左往する世界か。其も然らず。されば唯光明の輝ける世界か。其も然らず。山川草木の具備なきか。其も然らず。然らばこの世界に住める人間は、姿もなく影もなき空の人間か。其も然らずと答ふるの他なきなり。是等は事実に於て直面せずば到底認識すること難し。故に魂を霊に任せたる人にあらざれば見聞することは得られざるなり。知りたくば早く魂霊一体の人となりて明らかに見聞せよ。
 慈音はこの所を見聞して認識なし居れど、是を諸子に伝ふることの不可能なるを知るが故に、語る言葉を知らざるなり。己のみ知りて他に伝ふる事の得難き場所なりと云ふの他なかるべし。衣食住を尊ぶ汝等の世界は、あまりに繁多にしてために種々様々の有様を見すれど、この界は衣食住の必要もあらざれば、諸子の世界の如く複雑なる影は止めざるなり。我、斯く語らばこの世界は無味乾燥の世界なりと思ふならん。されど事実は然にはあらざるなり。汝等諸子は旦にめざめ夕に眠る。この界は時間空間なきが故に、分秒も休む隙はあらざるなり。汝等諸子の眠り居る間も我等は働き居るなり。諸子の如く疲れたりとて身を横たへ、退屈なりとて物見遊山に行く如き気まぐれの行為をなすもの一人としてあらざるなり。任務するが故に楽しきなり。勤めなければ退屈とならん。つとめはたのし。故に我等は楽しみより楽みの連続にて苦みと云ふことを知らざるなり。喰はずば味を知ること難からん。早くこの所に来りて真の楽みを味ふべし。
     (昭和二六年五月一日から六月一九 日)

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