未知日記霊話集千三百六十三回 大霊界 全宇宙は間断なく放送を持続し居るなり。然るに諸子は肉体の開閉器を開かず、或は機械の故障によって是を感受する事を得ざるのみなり。無言詞と云ひ有言詞と云ふともすべては感じにして、その感じが明らかに何なるかを知ることを得ば、無言詞と雖も無言詞にあらず 教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                                                      NO 46                       
実在的と空虚的の理論         その1   
           教主寛大 講述



 大凡空気は無味無臭の如く思ふならん。されど事実は然らず。空気は実在的なるが故に、有味有臭にして真の無味無臭とは大気を指すなり。即ち大気は空虚的なるによってなり。これを要約するならば、空気は実在的にして、大気は空虚的なりとして研究する時、ここに無言詞感応の理を知る端緒は開らかるべし。所謂無言詞感応に於て、実在と空虚との二者の具備あることの意味を、知ることを得るによってなり。恰も実在的感応は空気より、空虚的感応は大気よりと見なして研究するならば、自ずと研究の道は開かるるならん。例へば汝等諸子の好める食品の匂ひが鼻に感じたる時は、忽ちその食品の何なるかを確実に知る事を得るならん。喰へば味を知る。喰はずして味を知らしむることは困難なるべし。されば味と云ふことは実在に属するか、或は空虚に属するかの問に対して、汝等諸子は何れを答ふるや。云ふ迄もなく実在的なりと答ふるならん。香も味もみな実在的なるべし。されど匂ひと味とを言葉にて説明する事は至難ならん。是無言詞なるによってなり。
 行者の中には二個の玉を用いて、その玉と玉とを接触せしめ、その音を聞きて予言なし居るものもあり。是等は音響を以て無言詞を聞きとらんとなす一種の方便にすぎず。是等の法と雖も即ち実在的感応に基因す。又易者が筮竹をもみ売トをなすも、矢張り実在感応をおこさしめんがための方法にして、是等は半実在半空虚の方法なるが故に誤謬多し。算木筮竹を要せずとも空虚感応を認識したるものならば、斯る事をなすの必要はあらざるなり。大気より空気に感応し、空気より又人心に感ずるによって、ここに大気空気が一体化して、人心に通ずる道理より是を研究するならば、従って無言詞感応の理をたしかむる事を得るなり。是等の道理を明らめしめんがために、未知日記に於て示しおきたるが如く、放送局より伝へ居る事柄が、汝等諸子の肉体と云ふ機械に感じて知らしめ居るなりと語りおきたり。恰もそれと同様にて汝等諸子にも肉体完全ならば、如何なる事柄も受理し得る具備を有するに不拘、諸子の肉体の機械が故障なし居るが故に、受け入るることをなし得ざると同様にして、全宇宙は間断なく放送を持続し居るなり。然るに諸子は肉体の開閉器を開かず、或は機械の故障によって是を感受する事を得ざるのみなり。無言詞と云ひ有言詞と云ふともすべては感じにして、その感じが明らかに何なるかを知ることを得ば、無言詞と雖も無言詞にあらず。されど肉体の機械不完全なれば、有言詞も無言詞となりて通ぜざる道理は、是等の比喩によっても明らかならん。

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