未知日記霊話集千三百五十三回 大霊界 慈音の如く魂を働かせて世を救はんとはかり居る為、己が身を顧る暇なきは我等よく知る。彼は我身を忘れて世を利せんとはかり居るため、肉体を粗略になして苦痛を与へ居ることは我等よく知る。されど是等は未だ修養修行の力乏しき結果にして、ここに少しの工夫あらば、動物性をはなるること難きにあらずと知るべし 教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の壱                             NO 37
無言詞界の大要について     その2     
              教主寛大 講述



 限度ある肉体を有するがゆえに、疲労困憊して休養する余裕を与へられ居ることは、当然なれど分度をわきまへざるが故に、任務をおろそかにして遊惰に耽るは宜しからず。我等の如く肉体の必要なきに到らば疲労と云ふ心配もなく、疲労を知らざるが故に働かざれば却て怠慢を感ず。故に誰一人として遊ぶものはあらざるなり。亦遊ぶの要もなきなり。働くが故に安楽なり。働かざれば苦痛なり。汝等衆人と我等とは斯の如き相違あることを知るや。慈音は肉体をもてあまし日々悩み居れど、魂を働かせ居るが故に、心は楽し。彼は日々楽しき日を送り居るなり。苦み居るは肉体の悩みに過ぎざるなり。彼は早く肉体の悩みを捨てたしと願ひ居れど、是は許されざるなり。是未だ修行修養の至らざるが故なり。彼にして修養修行全く終らばかかる愚考はあらざるべし。今一段修行せよと励まし居るなり。されど彼には未だその明らめは得られずして、唯肉体を捨てんことを願ひ居るは現在の姿なり。彼の肉体は半動物半人間にして、未だ肉体の完成はなし遂げ居らざるが故に、寸時の苦をまぬがるることを得ずして悩みを重ね居るなり。修養修行とは実に面白きものなり。然らば果して人体が半動物半人間の姿より、全く動物性をはなれて、人間性迄進化することを得るやと云ふ疑問を、慈声は慈音にむかひて話居れり。
 仏教の言葉に即身即仏、是身是仏と云ふあらん。身即ち仏なり。肉体と雖も悟らしむれば仏となる。仏教にいう仏とは即ち動物性をはなれて人間性に化せらるることを云ふならん。人間の持つ肉体ならば人間より支配するならば、人間にならずと云ふ事なからん。魂が悟りたる以上肉体を悟らしめる方法を案出すれば訳もなきことなり。其をなさざるは慈音に於て未だ修養の力にぶきか、或は智慧の至らざるに基因す。無言詞界の教へを明かに理解せば訳もなきことなり。半動物半人間にて、暮し居りてはその苦をぬぐひ去ること難からん。ここに一段の工夫あるべき筈なり。慈音の如く魂を働かせて世を救はんとはかり居る為、己が身を顧る暇なきは我等よく知る。彼は我身を忘れて世を利せんとはかり居るため、肉体を粗略になして苦痛を与へ居ることは我等よく知る。されど是等は未だ修養修行の力乏しき結果にして、ここに少しの工夫あらば、動物性をはなるること難きにあらずと知るべし。是は慈音に注意す。

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