未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百八十八回 絶対界 第十章 霊気と霊気の交はりに就いて 我等の導きは唯諸子をして、 天界の姿を知らしめんがために語り居るに他ならねば、宗教者と同一の思ひにて此書を見る勿れと注意しおくべし。 テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています

絶対界
第十章
霊気と霊気の交はりに就いて
           テツシン貴尊講義



 諸子は神仏の下僕にして、神仏の命に従ひて凡てに務めをなし居ると云ふ考へにて、行じ居らば其にて可なり。一つの命を受けてつとめ終らば、神仏より賞せられん。その賞せらるる言葉は、即ち有し難しと云ふ言葉となりて現はるるなり。然して再三再四つとめを粗略にせず、賞せらるる度加はるに従ひて辱なし、勿体なしの賞が深くせらるると知らば、「何事のおはしますかは知らねども、勿体なさに涙こぼるる」底に迄賞せられて、ここに初めて神仏と諸子が接近して、その姿をも拝することを得るに到るなり。むづかしき事にはあらざるべし。又理に外れたる教へにもあらざるならん。
 ここに注意することあり。其は他ならず。我等の導きと宗教者の指導とには相似て相違あり。 宗教者は一方的の説なるが故に、ややもすれば瞑道に陥り易し。 仏教者の如く無常観のみ語り居るが故に、人心は陰欝となり、然して活気を失ふこと多からん。 余りに神仏を恐れしむる結果、陰鬱となり行く傾向あるは、我等よく知るところなり。 仏教信者の涙もろくしてよく嘆く人は多し。されど日本古代の神道の教へには、かかる人の少なくして、活気にみなぎりたる人多かりし昔を我等は知る。 全世界の宗教者悉くが是等に類するたぐひ多し。是みな誤ちたる導きをなし居るが故なり。 我等の導きは唯諸子をして、 天界の姿を知らしめんがために語り居るに他ならねば、宗教者と同一の思ひにて此書を見る勿れと注意しおくべし。余事は兎に角神によりて作られたる諸子なるが故に、諸子には己と云ふものあらざるなり。故に神の命に従ひて行動せずば、使命は果されざることは云ふ迄もなからん。然るに諸子はすべて自己中心に物事を考ふるは所謂我儘気儘と云ふなり。されば早く我儘気儘を捨てて天の使命に順ずる道を考究せよ。 然らずば霊気を知ること難からん。神に順ずと云ふは霊地の徳を知ると云ふことなりと思はば可なり。霊気と霊気が一体化することを信と云ふなり。信は真なり。信は親なり。親しむの意味に通ず。親しむとは結合を意味す。故に和するなり。さればすべては信なるべし。神と云ふも亦信なるべし。神を仰ぐことも信仰なれば、是又和する方法を示したるに他ならず。故にミキョウは神を知らずとも、神を作りては如何と教へたるなり。是等はこじつけかは知らねど言葉至らぬが故に、かく語るの他なきなり。文字の意味にこだはらず、唯その大体の意味をのみこむことを得ば、其にて我等の望は徹したるなり。
 諸子の信仰とは我等より見る時は圧力性にして、神仏を迎へ入るるにあらずして押し出し居る如き方法を用い居る姿なり。信仰の本質は圧力性にあらず。 引力性ならでは信仰とは云ひ難し。信ずるとは引力を意味す。 諸子は神と己と対照として、己を神に至らしめんとの考へより見えざるものを探り求め居るが故に、信は得られざるなり。 対象物を作らず、又対象物を考へざる引力性を働かさずば信とはならざるなり。不滅母霊子は先にも語りし如く、活動霊子補助霊子にわかるると語りたるは是なり。活動霊子は諸子の考へにては圧力と思ふならん。もとより圧力に相違なし。されどこの圧力を反対に用ゆれば引力となる関係あるなり。 活動霊子を引力に用ゆれば、補助霊子は圧力となり、補助霊子を引力に用ゆれば、活動霊子は圧力となる。故に引力と圧力は相互に用いかたによりて、何れにも化せられる力を有す。此事柄を予め認識なし居らずば、我等の語る説を知ることは至難なるべし。 活動霊子 補助霊子は、相互融和性と分離性の素質を有するによつて、一方に融和性のはたらきとなれば、一方は分離性のはたらきをなすと承知せられたし。融和性と分解性の素質の原理は、即ち霊子の摩擦に依るが故なり。是が次第に発育延長する事によって種々様々の無形有形のものに、組織せらるることの理は推して知ることを得るならん。 是等の詳細は後に教主の語らるる教へによって確かに覚ることを得るならん。今は唯是を参考に供しおくに止むべし。

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