未知日記霊話集千百八十五回 光明論 下巻 巻の十 我は一言に答ふるならば物の種子なりと教ゆべし。即ち信仰の種子、情の種子愛の種子慈悲の種子なりと見て差支なからん。この種子を汝等が魂魄の畑に蒔けよと勧むるなり 教主寛大講義


未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の十 
完結篇
                     教主寛大 講義
                    

 ここに注意しをくことあり。心意魂魄は位置を有す。位置を有するが故に時間空間あり。されど霊には位置を有せず。故に時間空間はあらざるによって絶対不変なりと屡々語りたる如くなり。汝等よくよく考慮し見よ。一度死すれば再び死せじと絶叫し居る汝等は、腹の底より語る言葉を口にするか。(原文は語ると書かれているが斯かるではないか?)但し表面の言葉なりしか。我は一度死して再び死せざる境涯に到らんことを望むなり。
汝等の心意は個々別々に区分しありてその思ひ、その行ひも従って等しからずと雖も相互に共通なるものは魂魄霊を措いて他に何物をも見ることあたはざるは事実なるを頷きたるならん。今汝等は霊光の冠を戴きて世に処して衆人を導かんとなす運命に置かれたり。宜しくよく留意して汝に来るものには救ひの笏をさしのべよ。されど去る者は強いて追ふべからず。何となれば去る者を追はば却て去る者に苦しみを与ふるに依てなり。
 信仰の帯をかたくしめよと云ひしを汝等は理解なしたるか。我、汝等に帯と云ひしには理由ありてなり。宗教者ならば信仰の衣を纏へよと教ゆるならんと我は思ふなり。然るに我は衣と言はず、細き帯にたとえしは何故なるかに思ひをめぐらすべし。信仰を全身に纏はしめずして情(なさけ)愛、慈悲を全身に纏はせ大切なる信仰を帯にみたてしは如何なる訳なるかを深く考慮し見るべし。衣には袖襟見頃の区別あれど帯は一つなり。故に信仰は一ならざるべからず。汝等一つの信仰に帰せしむることを得るや。又一つの信仰とは如何なる信仰なるかを知るや。汝等は物事を考案工夫するによって誤認すること多きは遺憾なり。この観念を速にすてよ。然らずば悟ることは得られざるべし。即ち汝等は神を信仰すると考ふれば、その信仰は我と神との対立となるを以て正しき信仰を求むるを得ざるなり。かく語らば汝等は不審の眉をひそむるならん。然して信仰の意味を失墜して迷ふならん。又何を信ずるかを我に問はんとなすならん。対象あるものを信仰なすは信仰にあらず。その相手を頼まんとすか、或は事実と不事実との区を知り得たるにすぎざるなり。情(なさけ)愛慈悲は動を意味し信仰は不動ならざるべからず。即ち動を不動にてかたく縛り、然して是を動ぜしめざる底の境地にをかんと修行するなり。換言すれば情(なさけ)愛慈悲の宝を失はしめざるよぅかたく縛るなり。然らば信仰とは何か。又情(なさけ)愛慈悲とは何かと云ふに、即ち我は一言に答ふるならば物の種子なりと教ゆべし。即ち信仰の種子、情の種子愛の種子慈悲の種子なりと見て差支なからん。この種子を汝等が魂魄の畑に蒔けよと勧むるなり。

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