大師曰く、 貴下(慈音師)もまだ少しは生きて居られる限り修行して人間界に、大きな遺物を残すよう折角の勉強を祈ります。今セイキョウ貴尊から御話のあった饒舌鳥で、私(わし)は今の日本、今後の日本がこの多弁鳥の姿ぢゃないかと思ひますぢゃ 円海大師講義

 



今日、娘に催促されて野向町のコスモス畑に妻と愛犬のさくらを載せて出かけた。案の定まだ時期がはや過ぎて、コスモスは花弁も小さく、ちらほらと彼方こちらで小さい花を咲かせていただけだった。あと半月ほどしたら再度訪れたいと思います。きっとその時分には大きな花弁を開き、大勢の観光客で賑わっておる事でしょう。帰りは買い物を済ませ、お彼岸の事もあり菩提寺へと参拝。厳戒の辞を家族全員で唱え、僕は墓石の裾に座り、そこでタバコを一服。僕は娘に言う「世界中どこを探しても墓石に厳戒の辞を刻印してあるのはこの墓所一カ所だけだ。あと何十年か経過したらポッポツと出て来るだろうな。これは故人の魂を慰めるためだけのものではなく、お前たちがこれからも将来、厳戒の辞を忘れることのないように俺の願いを込めた遺言のためだ」と
本日ブログを更新した中に円海大師の講話の中で次の言葉が書かれている。
「まあまあ是からが大切です。貴下(伊東慈音さん)もまだ少しは生きて居られる限り修行して人間界に、大きな遺物を残すよう折角の勉強を祈ります・・・・・」と

この円海大師の仰る大きな遺物とは当然未知日記全巻の完成することをさしています。教主寛大も慈音さんと慈声さんに「お前たちはこの書の完成を急いでいるようだが、読まれる時はまだ至っていないと言明されおられます。その時期がきたならば燎原の火の如く、はなはだしい勢いで広がってゆくと確言されておられます。
この円海大師は昇天され、今はインショウ.ミキョウ貴尊として天界で働かれておられます。日本で仙人として、多くの徒弟を教育され、最後はチベットの山中で昇天の行を行い、自らの肉体を土中に埋め昇天された方です。未知日記の書では因果論、三世と四世論、テッシン講録、光明論下巻などを執筆されておられます。上部に載せた仙人の画像はgoglle から拝借しましたが、伊東慈音先生が戦前伊勢の山中で円海大師と邂逅された時は、御年160歳をすでに超えていながら見た感じは50歳位から60歳位の壮健な男性だつたと随行した山番は語っています。
今となってはもう遅いのですが、あの時真剣に坂井先生に聞いておくべきだったと今は本当に後悔しています。当時は僕もまだ若く未知日記の全貌をまだよくわかっていませんでした。又、衛藤先生のお顔も知らず、晩年の生活その生涯をも坂井先生から聞いておくべきでした。
昔、僕の敬拝する坂井先生(未知日記の共同出版者)から聞いた話の中で、円海大師はチベットに行かれた時は雲を呼び多くの書籍と共に外国に飛び去ったということを聞きました。坂井先生はこの慈声さんと協力してこの未知日記の書を刊行された方で、いろんな話を衛藤慈声さんからお聞きになっておられました。

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