未知日記霊話集 第千四回 光明論 下巻 巻の六 云ふ迄もなく雨風を起すは気圧の関係ならん。然りとせば其一部に起る気圧関係を或種の電波によって変更せしむるならば其にて風雨を抑圧するは至難にあらず。神と雖も神通力にて気圧に変化を生ぜしめて雨を降し風を起さしむるなり セイキョウ貴尊講義

未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の六 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  上
線分自然と平面自然


               セイキョウ貴尊 講述
                     206番


 人間は山に登りては山の自然を克服したりと云ひ、又は川の流れを変更しては川の自然を克服せしなどと称へ居ながら、何とて雨を征服なすを得ざるかと嗤ひたるなり。汝等是等の例話を如何に解釈せば可なりと考ふるか。即ち是等の現象こそは大自然より生れたる自然の子孫とも云ふべきものに過ぎざるなり。山川の神とか云はるるものありと仮定せば、彼等は自然の一部を応用して作り出せし方法に過ぎざるなり。若し人間の智慧が長けたるならば此神の如き行ひは達成するも難きにあらざるを知りたる神々は人間の無智を冷笑したるならん。山の自然を克服したりと云へる如きは是即ち線分自然の考へなり。若し是等の雨風を人工によりて克服なしたりとせば其は平面自然を克服したりとの考へに相当するならん。絶対自然より相対自然は生じ、相対自然より線分即ち単自然を生じ来て宇宙は組織され、世界が次第に構成したるなれば是等の道理を認識して考察して種々なる方面に思ひ廻らさばすべては明瞭となるなり。然れば山の神川の神の場合は如何にして是を処理せば自然に合ふかと云ふに、其は云ふ迄もなく雨風を起すは気圧の関係ならん。然りとせば其一部に起る気圧関係を或種の電波によって変更せしむるならば其にて風雨を抑圧するは至難にあらず。神と雖も神通力にて気圧に変化を生ぜしめて雨を降し風を起さしむるなり。人間は神の如き力なければ其に相当する機械を用いなば可ならんに、其をなす能はざるを神は嗤ひしなり。
 平面自然は変ぜしむるを得と教へしは此理なり。是を知らずして自然の力は人力の及ばざる処と空しく放棄するは智慧の発達を計らざるによりてなり。汝等は深く思慮してここに悟道を求むべきならずや。汝等よく思慮を廻らしみるべし。絶対自然に返れば相対自然は自由に変ぜしむることを得との原理を知るならば、すべてを絶対自然に帰せしめて是に順応して進むならば、相対自然に適合するによって変化を与ふるは至難にはあらざるなり。本来自然より総ては現出なしたるに依て、自然を応用せんとならば自然に逆行せば何事も成功せざるは当然ならん。されば自然に帰らざれば真の自然を知る能はざるは因より異論の余地なからん。
 線分自然と云ふは心意の観念にして平面自然とは魂魄の観念に属すとも云ひ得らるべし。仮に汝等が日常生活に於ての善悪は即ち心意に任せ居れる故に、線分自然に属して彼は良と感ぜしも後に悪き結果となること少なからざるべし。然りと雖も些か重要なる事に関しては深く思慮を廻らすならん。是即ち魂魄のはたらきとなるを以て、平面自然とも見らるるにより、未来より未来へと考へを働かす結果、たとえ過誤を来すともさしたる失敗を招くこと少なかるべし。故に心意の観念と魂魄の観念とには極めて広き範囲にわたりて相違のあることに気附くならん。線分と平面の差は是にても察することを得ん。汝等科学に於て普通科学と自然科学とに分類なし居れるも、是線平面の相違あるのみならずや。其はとにかく科学はをしなべて自然の理より成立なすにて不自然に相当せば成立なすものにあらず。汝等絶対自然のさとりを得ば、科学の力も自づと湧き出づるなり。故に道理を知り不条理も理解されて是を行ふを好まざるに至るなり。

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