未知日記霊話集 第千三回 光明論 下巻 巻の六 汝等が考へ居れる自然とは、線分的自然ならんと我は考ふるなり。若し平面自然にてもわきまへ居らば、斯る言葉斯る文章は言筆に現はすことなかるべし セイキョウ貴尊講義

未知日記 第六巻 光明論      
下巻 光明論 巻の六 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  上
線分自然と平面自然


               セイキョウ貴尊 講述
                     205番


 線分自然(単自然)と平面自然とは如何なるかと云ふに、即ち汝等が世界に称へ居る自然現象とか、或は自然主義など称へ居るは大概線分自然に属すと云ふも過言にあらざるなり。此自然主義には不自然に化せしむることもあり、又不自然を自然なりと無理に自然に化せしめんと論究するさへ見受けらる。自然が人間によって自由に変ぜしめらるるならば、そは自然にあらずして不自然と云はざるべからず。斯く云はば汝等は言ふならん。自然なるが故に自由に変化せしむるにあらずや。若し不自然ならば曲直の自由は計るべからずと。そは誤れる質問なり。自然に曲りたるものを、伸さんとせば折れるならん。自然を征服したりなど称ふるは汝等の言葉なり。征服せらるる自然、即ち線分自然か、もしくは不自然なるべし。汝等は高山に登りしとて山を征服したりと云ふ言葉を用ゆれど我には合点なし難し。又訳も無き珍らしきこと、或は新しきことをなしては自然を克服したり等称し居るも、是自然の真の姿を認別(わきまへ)ざるによってなり。故に汝等が考へ居れる自然とは、線分的自然ならんと我は考ふるなり。若し平面自然にてもわきまへ居らば、斯る言葉斯る文章は言筆に現はすことなかるべし。又聞く人見る人に於ても、此言此文に感銘なし居るは同じく自然を誤解し居るに依てならん。されば線分的自然、平面自然とは如何なるかと云ふにここに一例をあげて其に依て説明を加へん。
 或日山の神と川の神と、人間の無法なる態度に怒りを発して協議の末一策を案じ夏期ともならば、人間は山川を求めて訪ね来らん。此時山に来らば暴風を起し登山を妨げ、川に来らば水を濁し夕立を降らせて彼等の望を妨げやらんと。軈て夏の季節となりて炎暑に堪えかねたる人間共山に川へと憧れ来るに、かねての計画を実行にうつしたれば人間共慌ててふためき或は不平を称ふるあり、或は恐るるあり或は怒るあれど人間共の力及ばざれば空を眺めて曰く、「ああ、自然の力には到底人間の及ぶべくも無し」と嘆息す。山川の神は是を聞きて笑ひ興じて、「さてさて人間は愚なるものかな」と。汝等此言葉の意味を察する事を得るや。山川の神は何故に人間は愚なる者かなと笑ひしか。即ち自然の力は人力の如何ともなす能はずと言ひし言葉を嗤ひたるなり。

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