覚者慈音340


光明論 上巻 巻の一
                その24
  
                 セイキヨウ貴尊 講述



 霊光とはいのちなりいのちなりと云ふも可ならん。真の人間とならんと欲せばいのちを長く広くせざるべからず。又其いのちと賢しとを混同するなかれ。賢しは一時の思ひが速なるに過ぎず。智慧は永遠なればなり。小才あるをいのちと考ふれば誤解にして真の長いきを得るは難かるべし。肉体は限りあれどもいのちは限り無しと云ひし理もいささか覚り得たるか。但し未だ解し難きか。汝等仏教者が使用する念珠を見よ。珠のなかを通しある紐はいのちにて珠は1人一人の肉体なりと考へ見よ。珠には良否あれど紐は一なるべし。珠は砕くあらんも紐は残る。もし紐が切れたれば珠は飛散するにてはあらざるか。是等に依てもさとる道は開かれあるにてはあらざるか。いのちの紐は長く肉体の珠は小さし。人智を広くして身三歳にして肉体を捨るとも、そは長命の人にして、人智短く百年の長寿なすともそは短命なりとは前に語りたり。然らば汝等此理にも誤解するならん。賢き子供は長命にて愚なる老人は短命かと思ひなば其は愚なる誤解なり。真の智慧は賢愚を指すにあらず。賢とは頓知頓才にたけたるにて一時的なり。謂はば一時の芽生えたる銘木にすぎず。その賢者に肥料を与へて真の銘木に育て上げずばいのちとはならざるなり。賢者は早苗にて即ち優秀の早苗の如きを云ふなり。いのちは完全なる米を云ふなり。三才の翁とは早場米を云ふなり。賢きは優良の苗にて是を作り上げて米となさざればいのちとは云ひ難し。肉体を有する間に真のいのちを得よと教主は説かれたるにて霊光はいのちを長くする肥料なり。いのちを延ばせ重ぬる衣なりと知らば可ならん。いのちは重ぬるを得れども肉体の年月は限りありて重ぬるを得じ。即ちいのちには限りなく、肉体には限度ありと仰せられしは此理なりとさとりて修業修養を怠らず精進すべきなり。如何に人の肉体の力優れたりとも獅子象には及ばじ。されどいのちに相違ありて人間は彼等を左右する力優れ居るなり。人間となりて終るか、動物となりてはつるかは是に依て見るも明白ならん。然るを我等は動物なるに依て動物にて終らば可なりと云ふは是か、はた又非かは汝等が心に任せん。
 女は弱く母は強しと云ふも女は肉体を意味し、母はいのちを意味す。汝等も知れる如く母胎に宿りたる時は、母の頭は天空に向ふに反し、胎児の頭は地上に向け居りて生まれて一ヶ年後に至らずば、天に頭を向くるを得ざるを見ても肉体は地に帰し、いのちは天に向ふとの感も深かるべし。何よりも大切なるはいのちなり。是を捨てんとなすものこそ天理に反す。然れども此いのちを奪はんとなすものあらば、肉体を捨てて戦ふを要するは当然にして所謂神の恵に反くを倒すなるによりて、正当防衛なれば罪にてはあらず。いのちを奪はんとなすものは神に反く悪魔なればなり。又いのちは奪はるるものにはあらざれど、是を奪はんと企つる罪を憎みて処罰の戦いと知るべし。されば此事柄より推理せば特攻隊とか称するものの死は死にあらずしていのちを全うしたる現はれなりと云ふ事の理は頷かるるならん。


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