覚者慈音339

光明論 上巻 巻の一
                その23
  
                 セイキヨウ貴尊 講述


 汝等は常に己の醜さを隠して表面のみつくらいて他に接し居るを教主は知り給ひて、形を有する光は表面を照らすとも裏面に暗き影ある事を説かれたるは汝等が表裏一体ならざるを現はし、霊光を知るに依て、斯る行為或は斯る偽はりを止めよとの誡めなりと心得て、裏表なき修養せば霊光に照らさるるとも形の光に照らさるるとも何等恐るるに足らざるならん。嘘偽りは何日かは現はる。一時のがれの方便なりとごまかすも何等得る処なからん。口と心が一致して初めて真の徳の現はるると、汝等は口にしながら行はざるは何故なるかを反省し見よ。汝等は責任観念が余りに薄き故ならずや。人間の大切なるものは何なるか。言はずとも知るならん。いのちなるべし。此いのちの為に汝等の世界の風俗習慣義理人情の其々異なるに至りたるなり。己を大切になすは天の命を守る責任より出でたる現象と思ひて大切になすならば、其は正しき行ひにあらざるべからず。力を我物と考へ我為にいのちを大切になせる為に人間性は失はれて動物性となり行くも、人間相互間に都合よき規則を作りて却って争闘に陥る結果となりつつあるなり。故に東西相等しからざる習慣思想の喰い違いを惹起するに至れるは是非も無けれど、神の道より離れ行くは苦々しく且つ、不憫なり。されば教主は汝等に真の道を教へて神の古(いにしえ)に返へさしめ、真の平和なる社会を作らしめんと努力せられあるなり。
 いのちとは真の智慧と解するも可ならん。生命(いのち)即ち真の智慧とは尊き命令にかしこみ神に応ずる責任なるべし。仏教の帰命(きみょう)とは此意味なるべし。神に帰命して誤らずば是に依て道は開拓せらるるならん。我の言いまわしは汝等不明の感じを抱かしめたれば、今少しく詳細に説明せんに、汝等は、「意乃智」長しと云へば、年数長き間肉体の生存するを心に止めあるに依て我説明を理解するを得ざるなり。「意乃智」を延すとは真の智慧を延長拡大するなるをいのち長しと云ふにて、汝等が云ふ長命、ながいきとは従って其意味を異にす。故に三才の翁百歳の童子の意味も汝等の教へと我の説きしとに誤差あるなり。真の智慧優れたるは三才の小児も百歳の長命にして智慧少なきは百歳の老人も短命なり。汝等の思ふは長命にあらずして長年長寿ならんも、真の智慧を我はいのちとして示して講義をなし居るなれば、其心して聞きて覚るべし。長年長寿と長命とを混同せばさとりは容易ならざるなり。長いきするとは長寿なれど肉体早く失はるとも智慧たけたれば長いきなり。人間性と云ひ動物性と称するも長いきと長寿の区別を指したるなれば、此理より凡てに考慮を廻らさば自ら神の道、即ち天の使命は知らるるなるべし。

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