未知日記霊話集  第六百二十九回  帰途案内記  転界の巻 八流界の人類  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1310
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の三
上界の巻 
NO 164
更に八七六流界に到る迄
八、九流界の科学について 
                 セイキョウ貴尊 講述
 

 我、前書に語りたる米を例にして考へ見る時、世人の世界は恰も田にある稲と、稲穂が漸く稔りに近づき居ると仮定すれば、九流界は稔りを全うして藁より放たれたる稲穂、即ち籾の世界に等しく、八流界は籾をぬぎて米と化せらたる世界と考ふれば、ほぼ察せらるるならん。所謂八流界は米の世界なりと考ふる時、此米は玄米にして、未だ白米とはなり居らざるが故に是を白米にする任務をなし居ると思ひて、修養修行の方法は、彼等心界(仮称)の人の姿なりと知らば、従って世人の世界との隔の多き事も察せらるるならん。斯くの如く人智は進むに従ひて、尽きる処なく進歩発達なし居るなり。是に依って心界の人は、肉体に全く囚はれず、唯魂に重点をおきあることも亦合点せらるるならん。身心界の人は夫婦間に於ても肉体関係の必要あれど、心界の人にはかかる必要もあらずして、唯心の交はりに依って子を儲くるなりと語りたるに対して、世人は全く想像もなし難かるべし。
 所謂仮称心界は霊気の交はりにて子を儲くるが故に、肉体の苦痛悩みのあらざることも、世人の世界の人心にては到底測り知ることの難きは当然なり。されど事実は事実にして是は科学上より、推理する事を得るなり。世人の世界の精神科学は未だ幼稚にして、その域に達し居らざれど、身心界の人類はよく此理を知るなり。精神科学は発達して今後世人の世界に於ても、此理を究むる事を得る程度迄進みなば、世人の世界は身心界の域に到達すると思はば、益々奮励して智慧を磨かば、自づと諒解する事至難にはあらざるべし。さりながら如何に此理を究め尽すとも、事実に於て証明することの難きは、恰も身心界の人類が其理を究め尽しありながら、肉体の組織異なるが故に、未だ其事実を表面化なすことを得ざるに等しと思はば自づと頷くところあらん。限度ある肉体なるが故に、是は事実に於て遅れ居るなれど、智慧は自由を得て尽きる処を知らず進むが故に、肉体と心との隔は相違あるなり。されど心界に至っては既に其が事実に現はれて現出なし居るなり。所謂無機科学と有機科学との相違ある事に徴しても明らかならん。

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