覚者慈音293

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の五                         NO240
大霊界入門記    後編                 
第七、フク 反復門 (仮称) 一名奮起門 (仮称) とも云ふ                                                    その9
                       教主寛大講述


 絶対自然は如何になすとも動ずるものにあらず。されど変化自然は諸子の肉体を組織もし或は破壊もなす。是等もすべて絶対自然の力によって変化自然は伝はり居るによってなり。不変化自然の力いたらずばすべては変化自然となりて破壊へ或は組織せしむることも難からん。組織破壊はすべて自然の力なり。不変化自然のそなはりなければ全宇宙は亡ぶ。又組織もせられざるなり。故に不変化自然を名づけて絶対界と称へをきたるなり。汝等諸子の考ふる絶対と我等が語る絶対とには大なる開らきあり。汝等の考へなる絶対とは相対の行きづまりを云ふならん。行きづまりは絶対にあらず。絶対とは終始きはまりなきを云ふにて始めなく終りなきを云ふなり。行きづまりは限度なり。限度を有するものに絶対のあるべきやぅなし。汝等諸子は絶対を終末と考ふるが故に終始の区を考ふるなり。故に諸子は生あらば死あり、死あれば生ありとの理屈を考へ居るならん。終始のきはまりなければ生もなく死もなく又死もなく生もあらざるべし。我かく語らば諸子は云ふならん。然らば生死の区なければ動静の区もあらざるならんと。然り、即ち動静とは諸子の心の迷ひなり。動と考ふるも迷ひにて静と考ふるも亦迷ひなり。動静を幻の如く考ふれば生死も亦是に伴ふ。諸子よ。この事に深く深く思ひを致して無言詞を聞くべし。然らずば無言詞は諸子のものとはならざるなり。何となれば無言詞とは動か静かの区を明らめずば聞き得るものにあらず。又悟り得るものにもあらざるによってなり。動と思はば迷ひを生じ静と思はば又迷ひを生ず。迷ふも亦動静に帰す。我斯くもまぎらはしき言葉もて諸子の心を混乱せしめ居るは何によるかを考慮せよ。然せば無即ちなしと云ふ点に迄心を、否○○せずば悟りは得難からん。この教へは文字なければ○○の他なし。故にこの○○に思ひを否まなこを、否耳を否口を否肉体をも委ねてこれに順ぜよ。今慈音が是に対して禅宗の坊主の如しと語りたり。我は禅家の僧にあらず。
 フクの階とは斯くの如し。かくも複雑微妙なるものにて深淵きはまりなし。故にこの階に行ずるものその力のそなはりなかりせば到底職責を全うすることは難し。是等の点よりフクの階の如何にむつかしきかを想像せば小さき汝等の心の中にも何か朧気なるものの現はれが映じ来らん。
  

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