未知日記霊話集  第百九十回  大霊界とは神の世界かその2  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO145 
大霊界とは神の世界か            その2                                                   教主寛大 講述


 親は天界に至り、子は地獄に堕る場合もあるなり。親子兄弟悉くが現在より未来へと居を同じうするものならば、下界に於て苦みあらば自殺なすともその悉くが同じ場所に居を定めて苦みをまぬがるることもあらん。されど事実は然にはあらざるなり。是等に関して大霊界を知るに便ならしめんがためいささかか語りて道を開らかん。すべて人には皆其々の役目ありて一人と雖も、同じ道を歩みて同じ場所に移さるるものにあらず。例へば汝等諸子の世界に於て親子兄弟となる縁の深き、如何なる関係ありてかより考究せざるべからず。汝等多くの子を儲けてその悉くがみな同じものはあらざるべし。優れたるあり。劣りたるあり。柔順なるあり。粗暴なるあり。賢愚はもとより異なり居ることは、何故にかかるへだたりのあるやを考へしことあるや。同じ父母より生れたる多くの子が皆その性質を異にするも、何かそこに原因なかるべからず。是等は医学上より研究すれば皆その時々の有様より種々様々の論理もあらん。されど其は物質的の解釈にして我等の云はんとする所は、斯る点に関係なく魂霊の方面に於て語らんとするなり。夫婦間に於て多くの子供がみな一様ならざるは、その悉くが肉体に於ては同種なりとするも魂霊に相違あるが故なり。例へば一軒の借家になぞらえて説明すれば昨日迄住居たる人が、明日になりて他に転宅せば又も来る人は同じ人にてはあらざるべし。入りかはり立かはり住居するならん。恰も其と同様にて夫婦は借家の如く、生るる子供は多方面より入り来る人なりとして考ふれば可ならん。是を大きく天界にあてはめて考ふれば、夫婦と云ふ世界に他界より上り来りて住居するもの、皆同じ人にはあらざるべし。此理に基きて考へを廻らさば親子兄弟たりとも、みな同じ所に住居することの難き理は推して知らるるならん。仮に汝が儲けたる子が幾人かありとして、一人は九流界に、一人は十流界に、更に一人は十一流界へと、皆其々異なりたる所に運ばるるは、みな其々の役目と運命を異になし居る故なり。慈音の父母兄弟みな悉く分離して、現在は居を異になし居ることを慈音はよく知る。されどたとえ居を同じくせずとも修養修業の徳によって、無始終界の行終らば自由は得らるるによって、居の如何に不拘自由に往来して、父母兄弟と共に対面することも得らるるなり。斯ることは医学にては到底解釈すること困難ならん。是を知るものは行を遂げたる者にして得、又自由に往来して交はりを結ぶことも得らるるなり。円海,泰岳,セイキョウなどは同じ日本に生まれたれど,国は皆異なり居るなり。然るに天界に来たりて日本に生まれしと云ふことを知りて、彼等は互に交はりを結び居れど、彼等の位置は同じ場所にあらざることは先にも語りたり。汝等諸子は肉体を基として想像するが故に、天界にありてもその悉くが異なりたる如く想像するならん。肉体人種の区別は汝等諸子の世界にのみあらはれ居れど、功なり行遂げたるもの、天界に来らば人種の区別はあらざるなり。されば修業至らざるもの天界に来るとも、人種によりて鑑別することは得難し。汝等の世界にて黄色人種とか白色人種とか黒色人種とか相違あるも天界に来らば斯る差別はあらざるなり。唯,修養修行の程度によって定められたる位置によって鑑別せずば計り難し。天界と下界の相違はかかる点に於いても異なり居るなり。
 ミキョウ,テッシン,セイキョウと皆悉く程度によつて定まり居るのみ。人種によって鑑別することは得られざるなり。テッシンと雖も二流界より移されたる者なれど,二流界に生まれ来たりたる経路を遡れば十流界なりしやも計られず。されど今は其れ等のものは記録盤より外されて,現在の鏡にては二流界より移され居るなり。是等の理由を如何に解釈すとも諸子には到底明むる事は得がたからん。自然の法則にはかくも微妙なる働きを有し居るによってなり。

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