未知日記霊話集  第百五十八回  信仰の力 疑ひは信仰の門 その3  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の三                         NO110
      
疑ひは信仰の門          その3
泰岳大師の信仰についての説明                                                 教主寛大 講述


 彼(泰岳大師)は身心の人にあらず。魂霊の人にして無言詞を聞く力の備はりたるによって、幼き時よりたえず天界を観望し、然して大自然に順応して唯々拝みを持続し居たるなり。既に彼は肉体を下界にをき、その他のすべては霊界の人なりしなり。さればこそ師の許にありて行を営み居りても、一般徒弟とは異なり、伎倆衆に優れたる力をそなへ居りて、他の徒弟より慕はれ、種々様々の質問を受けたる時、我は知らずと答へ居りしは、身心の姿が下界の人と同様の学問のわきまへなかりし為、愚者の如く見えたるのみにて、彼には教ゆべき言葉を知らねば無言詞によって、法を教へ居たる迄にて決して愚者にはあらざりしなり。彼は如何なる難行苦行をも是を行ふに、何等躊躇する事なく彼にとりては、難行苦行は別段ものの数とは思ひ居らざるなり。すべて身心を魂霊に任せ居らば、斯くも不可思議なる備はりを有するが故に、一般人とは全くかけはなれたる姿に化せられ居るにすぎず。故に一般人より見る時は全く愚者の如く思はれ居たるなり。
 彼は慈音を愛してこだま会にはかかさず慈音に至りて、無言詞を送りて指導をなし居れど、姿を現はすにあらねば、会員の人達は別段意中に止め居らざれど、会員に与へ居る無言詞の力は実に尊し。こだま会の会員こそ仕合者なり。円海は言葉を以て会員を導き、泰岳は無言詞にて彼等を導く。世の中に種々様々の宗教あれど、こだま会程大なる力もて育てられ居る会は類稀なるべし。其は余りに他の宗教とかけはなれたる組織なるが故に、会員は是を軽く見る傾向あるは、実にあさはかなるもの共なりと云ふの他なからん。平凡なる如く見えて、他の宗教より百倍千倍もすぐれたる指導を受け居る会員こそ、実に幸福者なりと云ふとも敢て誇大の言にあらず。金品財宝を徴収して会堂を広くし、世間の眼を惹く如き組織ならば、却って信仰者は踵を接して集ひ来らん。然して利する者は誰ぞと考ふれば、実におろかしき事ならずや。慈音にして一般宗教者の如き振舞をなすならば、泰岳も円海も席を蹴りて立ちかへるならん。泰岳円海は百万の集会者より、正しき一人の信者にて可なりと思ひ居るが故に、慈音をはなれざるなり。余事に渡りてさぞや退屈を感じたるならん。されど無言詞の力は耳に聞えず、眼にも見えざるが故に、修養の尺度は如何なる程度迄伸び居るやすら知らざるべし。泰岳円海は是をよく知る。会員には是を知らざれど現今の会員はその力日増しに加はりつつある事は事実なり。唯彼等は何事かに対して一種の奇跡を求め居るが為、解することを得ざるのみ。僅少の奇跡などは取るに足らず。斯るものを求めんとなす間は、迷ひのみ深くして信ずることあたはざるが故なり。題目に掲げたる如く疑ふ心は信仰に入るの門なるが故なり。されば会員諸子は唯何事も考へず、泰岳円海の力を信じて拝みをなし居らば其にて望は達せらるるなり。斯る簡単なる宗教は何処にかある。平凡なる教への如く見えて、決してあやまたしむることなく導かれ居ることに感謝なし居らば其にて可なり。唯々拝む心を養ひて、一心に迷はず、泰岳円海の足あとを慕ひて、背後より歩み居らば其にてよし。急ぎて他の事に惑はさるる勿れ。急がば廻れと云ふ比喩もあるなり。急ぎて近道をなし居らば、却って他の道に迷ひ入るの他なかるべし。泰岳円海を見失はぬやぅ用心肝要なり。是はこだま会の会員に教ゆると同時に、此書を読む者にも此心がけにて読み居らば可ならん。

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