覚者慈音227

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO177
    未知と既知の区別          その3                                                    教主寛大 講述


宗教者は種々様々の偶像を作り、或は宏壮なる社を造りて衆人をして拝せしむるも、空なる神を実在的に仮作して其によって、空なるものを知らしめんがための方便にすぎざるなり。是等も無言詞を有言詞に化せしめて其によって、何かの事柄を知らしめんとして、実在的に現はしたる方法にすぎず。されば是を拝するものその心持ちを抱きて拝むならば、何かそこによって得るところも少なからずあるならん。されど実在的に囚はれて拝し、そのものより何か大なるものを求めんとする如きは、却って迷信妄信に囚はれて過誤を重ぬることも多かるべし。慎まざるべからず。たまたま是等の事を教へんとして、一種の空なる教へを語る宗教もあれど、その道を曲解して却って衆人を惑はすこと多き教へもあるなり。何となれば神を知らざるものが、唯文献によって己知らざることを知り得たりとして、是を拡むるとも有害無益の教へとなるによってなり。己自ら神を知りて広く語り聞かせ、然して共に其道を歩むならば、決して迷ひ迷はすることもあらざるべし。文献によって得たる事柄を、己悟ることを得ずして他に拡むるとも、其は空しき教へにすぎざるが故に、謂はばとりうりの方法にすぎざれば、先づ文献より己自ら是を充分理解し、更に進んで神を知るに至っての後にあらざれば効果はうすからん。我は知らざれど文書には斯々ありと語るとも、其は唯然あるかとのみにて耳目を籍すもの少なし。無言詞を聞かんとせば空より空へと追ひ求めて其事柄を聞きとり、其を事実の上に於て体験し、然してその効果を得るならば、更に又次より次ぎへと種々様々の事柄を聞きとり、次第次第に研究を重ねて、百発百中とならばここに於てはじめて己が無言詞を聞く力備はりたりと思ひて、他に勧むるも無益とはならざるなり。虚なることを空として公にすれば嘲笑さるるのみにて、却って己が愚を示す結果となるのみ、何等益するところはあらざるなり。



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